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はじまりとおわり

随分と経ちましたが、2019年が始まりました。
2019年は私にとって変化の年でもあります。
2月の中旬で今の職のおわりがあり、新しい職のはじまりがあるからです。
私は南半球はオーストラリアのシドニーに行って参ります。
7年ぶり、2度めの海外生活の始まりです。何年を向こうで過ごすかは決めていませんが、「はじまりとおわり」です。

前述のように、人生には何でも「はじまりとおわり」があるわけです。
人の誕生も「はじまり」で人の逝去も「おわり」ですから、この世は「はじまりとおわり」に支配されているんですね。これは私の死生観の一部です。

日本に古来から流れる、今では古典文学の世界でより色濃く触れることができる、無常観と密接な関係があると思います。
いろは歌にはじまる?日本人の無常観は、必ず死ぬ(これを必死と言わないのはなぜでしょう。)ことを前提に作られてると思いませんか?
平家物語の序文にも古今和歌集の真名序にも、死生観を投影する無常が記されるのです。

さて、死生観とはどんなものかと、考えたことがある方もいらっしゃるでしょうが、私には「終わりを意識するものの見方」であると思われます。辞書的に解釈するとそれはまた違うのですが、物事がはじまりとおわりに支配されている以上、全ては終わりを意識した、ある種の死生観に支配されていると思うのです、広義的には。
つまり、死生観というのは物事を捉える捉え方の1つであって、何も人の生死(いきしに)に関わるもののみではないと思うのです。

形あるものは、必ず壊れる。ということです。
これを命題としたときに、この命題の裏は偽だと思います。
形がなくても、目に見えなくても、友情や、愛情・信頼などの人間の感情や理性に基づいたものは形があり、壊れると思うからです。
愛の「カタチ」とかって、言いますよね。
聖書に
「見えるものではなく、見えないものに目を注ぎなさい。見えるものは過ぎ去りますが、見えないものは永遠に存続するからです。(So we fix our eyes not on what is seen, but on what is unseen, since what is seen is temporary, but what is unseen is eternal.)」
という言葉があったように思いますが、果たしてそうでしょうか。
仮にも私はクリスチャンですが、敬虔な信徒ではありませんから、疑うことを知っています。(世が世なら、処刑の対象ですね。)
感情や理性、想像や理想、信仰や良心は目に見えませんが、形にすることはいずれもできると思っています。(プレゼントや偶像として)
そうすると…見えないものとはあるのでしょうか?
16世紀の宗教改革を経て、偶像崇拝を禁止したプロテスタントですが、クロスは依然として残ります。握りしめ、手を組み、祈ります。十字架に。
さて、偶像とは、人を象っていなければ偶像ではないということでしょうか。
答えは否。だと考えます。
結局は信仰の対象は抽象化された「モノ」なのです。モノがあることによる安心感ってありますよね。お守りでも。
信じるというのはウンと抽象的なことだと思うんです。
究極の信仰は教会や寺社仏閣さえもない、精神的な信念に基づいた生き方だと思うのですが、どうやってそれを信仰とみなすのでしょう。
僧侶が無我達観していることがわかるのは、我欲を抑えた「行動」を見るときですし、ムスリムの敬虔さがわかるのは1日に5回ほど、メッカの方を向いて祈る「行動」やイスラム暦でのラマダンを見るときです。
結局は「モノ」に基づいた考えですね。

死生観を作り上げてきたもので、日本で言えば死への執着を恥とする武士道が有名ですが、鎌倉時代から続く仏教に根付く善行を積めば極楽へ行けるという、保証のない保証によって担保されたために生まれた死生観の一つであると思いますし、また、大げさな言い方ですが、「死」は動→静になる一種の行為・現象であり、「モノ」であると思うのです。

「死」という字は、屍に跪く人の象形だそうですが、死への恐怖というよりも、死は昇華の一部であって、神や、それこそ「見えないもの」に畏怖の念を表しているように感じるのです。(この場合の見えないものとは、死後の世界が、我々の目には見えないという意味で。)

以前、自己紹介の記事で、死への恐怖心がない、と述べました。
語弊を生む言い方ではありますが、今も揺らぎはありません。いつ死んでもいいように生きているということです。楽しかったなぁ、と思って目を瞑れたのなら、上をゆく幸せはないと思うのです。
太宰も芥川も、志賀直哉も三島も、死生観について著作の中で触れています。やはりどの作品を見ても、生き死にを中心とした死生観の中に、どこか汎用性を感じてしまうのです。
生命(いのち)でなくても通じてしまう「はじまりとおわり」の考えです。
作品のおわり、国のおわり、理想や思想のおわり、自らの命のおわり…
全ては、はじまりのあったものです。対義語の考えに似ています。

さぁ、取り留めがなくなってしまいました。
はじまりにはおわりがある。ということで、この記事も終わりにしたいと思うのです。

良い一年をお過ごしください:)

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