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私は嫌な目にあっていない #MeTwo

先日書いたノートとかぶる部分も多いが、ツイッターでのやり取りから自分が感じたことと、過去のツイートとをまとめ、忘備録として記録しておこうと思う。

<前回のノート>

私は嫌な目にあっていない

#MeTwo のハッシュタグで、欧州で複数のアイデンティティを持つ人達が声を上げ始めた。これは先日のエジルの事件がきっかけになっている事は間違いない。

#MeTwo のハッシュタグは、今までスポットが当たらなかったドイツにおけるトルコ系住民に対する差別が浮き彫りになっていて、興味深い。

その中で「ドイツに移住してきたシリア人だが、差別はあるけどみんなが大騒ぎする程ではない、私は英語話者でドイツ語はまだ話せないが、皆親切だ」というものもあった。

これは嘘ではないと思う。が、ここで考えて欲しいのは、こうした個人的な経験を大きな差別の問題と安易に結びつけていいのか、という事。

またお客さんでいるうちは、差別の根深い部分は見えてこない。また、矢面に立つ誰かに依存できる立場だと、それが悪いと言っているわけではないが、実体験として差別がなんなのかを知るのは難しいと思う。その辺で、マイノリティと一言で言っても、各々の経験が違うので足並みが揃わないのは仕方がない。

私はこのツイートをした人たちよりはずいぶん長く欧州に住んでいるが、現時点では他人に危害を与える人、差別的な人というのは特定な人種には限らず、貧困地区で育った人、選択肢を与えられなかった人達に多い、というのは自分の感想だ。ざっくりしすぎに聞こえるが、強いフラストレーションを抱えている人たちは、スケープゴートを探している。それはどの人種かより、どんな環境にいるかと強く結びついていると思う。

そしてもちろん、貧困地区の人達全てが差別主義者になる訳でなない。が、全ての人間が厳しい環境を克服し成功を勝取れるか、人格者に育ち模範的マイノリティになるとは限らないのだ。ある特定の人種を非難する時、その集団に何が起こっているかを全く考慮にいれず悪い人間だと断定し、自分と切り離す。突然暴力を振るわなくても、差別用語を投げかけなくても、こうしたカジュアルな偏見や差別は日常的に目にする。

「差別に対抗せよ」と言うのはたやすい

スコットランド人はリベラル寄りだが、マイノリティの数が圧倒的に少ない。差別反対運動は白人主導で行われている、白人リベラルのレクリエーション的側面が大きい。それはそれで仕方がないが、マイノリティコミュニティから主体的に声が上がる事は少ないのだ。

マジョリティは皆、#MeTooに代表されるようなハッシュタグやトランプデモでは集結するが、自分達の差別問題と向き合う事は少ない。自己満足、というのは厳しい言い方だが、他社の差別を糾弾するのもまた容易い。

差別に立ち向かえ、と言うのは簡単だが、それが味方のつもりであるマジョリティの期待したようなものなければ、孤立し黙殺されるのも事実。言うほど簡単ではないものだと思う。

差別に対抗せよ、と言うのはたやすいが、実際には怒りを表現し、声を上げるのは非常に難しい。それをやるのには、絶対的な周囲への信頼と、揺るぎない自信が必要だ。

そんな中で、弱いもの同士が叩き合う現象というのが生まれる。穏やかで、従順で、怒りを表さない上、頭数も少ない東洋系は、怒りや嫌がらせをぶつけてくる他のマイノリティに標的にされやすい。行き場のない苛立ちを抱えている人達は、やり返してこないと判断した相手に向かうという事だろう。

立ち向かわない方が得なのか

日本人の友人と話していて思うのが、「声をあげれば槍玉にあげられる。黙っている方が特だ」「真面目に生きていれば認められるのだ」という意見が多い事。

日本人は不真面目な人間、ずるい人間を嫌う。他の移民には「税金も納めてない、生活保護を悪用してる、子供の行儀が悪い」人が多い、だけど日本人は違う、私たちは受け入れられている、真面目だから。そう思いたい、そう思わないと怖い…理由はどうあれ、真面目な人だけ受け入れる社会、その社会のマジョリティの基準に合わせないと受け入れない社会の怖さ、という側面にはあまり頓着がない。

差別されていると感じるマイノリティ=マジョリティに合わせる努力が足りない人達、という認識だ。自省が足りない、差別されているのには理由がある、と言う考えだ。

これは、差別する側に取っては大変都合の良い意見である。こうした名誉白人でいる分には気分良く過ごせるのだ。自分や、自分の子供が理不尽な目に合うまでは。

従順じゃないな、日本人の女のくせに

長い間私も自分自身が「立派な移民である事、従順である事を示す事」が移民やマイノリティ差別への最も効果的な対処であると信じて来た。

その意見は、修士号の最終段階で変わった。大学が十分なサービスを学生に提供しなかった時(壊れた機材を何ヶ月も放置、チュートリアルが殆どない)、私は英国人の同級生と連名で陳情書を書いた。その時に担当教授が私に対して放った言葉が、

「従順じゃないな、日本人の女のくせに」

であった。開いた口が塞がらなかったが、助成金で研究していて期限付きで修士論文を終わらせないといけない私に、声をあげる時間はなかった。

ただ従順なだけの人間を尊敬などしないのが英国人だ。カズオ・イシグロがノーベル文学賞を取った時に感じたのが、何万人の日本人が「理想的移民」になるより、一人の個人が才能を開花させ、一個の人間としての意見を発する方がずっと重要なのではないかと思った。

見えにくいトルコ人コミュニティ

かつて車やミシンの工場のあった夫の故郷にはトルコ人コミュニティがある。夫が10歳から通っていたギムナジウムにはトルコ人は一人もおらず、白人の中でも特に裕福な層の子供ばかりであった。公務員の慎ましい家庭の子供は夫くらいだったという。トルコ人学生は地元の大学にも殆どいなかった。また、アフリカ系と違い宗教も違うトルコ系とはクリスチャン系のイベントで会うこともなかったという。そのため、夫の友人はほぼ白人の富裕層に限られている。

私たちの子供達がイギリスで読み書きを習い始めた時に使った教本にはビフ、チップ、キッパーという三人の英国人の子供の生活をベースに書かれているのだが、インド人の先生や友達、親友の黒人の双子などが出てくる。これも人によってはあざとい、と感じるかもしれないが。少なくとも、意図的にマイノリティを「見える存在」として扱っている。こういうインテグレーションへの工夫がドイツでは「ない」という。

ベルリンの旧西側など、明らかにトルコ人が多い地区以外で、あまりトルコ人がドイツ社会の一部であると感じられる場所は多くないと感じる。ケバブ屋があちこちにあっても、どこか社会の一部じゃないような、浮き立った感じがある。

対して、イングランドやスコットランドでは、優秀な児童の集まるグラマースクールや私立校で、中華系やインド系の存在はすごく目立っている。スコットランドの交通大臣はパキスタン系だし、お隣のグラスゴーの選出議員も数年前までパキスタン系だった。英国に差別がないとか、完璧であるとか、寛容であるというつもりはないのだが、差別が実際にあることを認め、意図的に才能のある人たちを起用する努力はしていると思う。

怒りは自己肯定の一部

前の記事でも引用させてもらった、在日朝鮮人の活動家、辛淑玉氏は著書『怒りの方法』「怒りは自己肯定の一部」であると言及している。日本人は怒りをエゴや自制心のなさとしか受け取らないが、自分が正しいという確信がなければ、理不尽さは自分の中で無力感としてしか育たないし、自分の正当性を信じた時、理不尽さは怒りとなる。そういう経験はマイノリティとして暮らしてみて、実体験となった。

いうまでもない事だが奴隷として連れてこられたアメリカの黒人、植民地から経済移民としてやって来た英仏ベルギー等の旧植民地のマイノリティ、60年代の労働力不足を補うためにドイツ政府の奨励でやって来たトルコ人とでは、全て移民を取り巻く感情も違う。

トルコ人コミュニティの誰かが「声を上げた」というのは、彼の自己肯定の現れでもありうると思う。ほぼ初めて「名誉白人」としてでも、トルコ人限定でもなく、実力で地位を築いて、揺るがない自分だけの名声を手にした人間が現れた、という事かもしれない。もしくは、それほどの実力があってもマイノリティをメディア上げての血祭りにする程、欧州の右翼化が進んでいるという事かもしれない。

何れにしても、#MeTwoについては、私の中では「ついに始まったか」という気持ちだ。ポジティブな変化をもたらす動きであることを祈る。

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