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居場所を探し続ける「異端」の物語-『ボヘミアン・ラブソディ』(2018)感想その①

 夫がいないのを良いことに、息子二人と話題の映画『ボヘミアン・ラプソディ』を観てきた。思った以上にセクシャルな同性愛シーンが多かったので、多感な年齢の息子達にはどうかと思ったが、そこは流石にイギリス育ちで全く動じてはいないようだった。

 『ボヘミアン・ラプソディ』は言わずと知れたバント<クイーン>のボーカル、フレディ・マーキュリーの伝記的映画。彼らをよく知るファン曰く事実と異なる点も多いとのこと。私は<クイーン>はカラオケで「ボヘミアンラプソディー」と「ブレイクフリー(自由への旅立ち)」は必ず歌うレベルでは<クイーン>が好きだが、大ファンという訳ではない。

 そういう立場から見ると、映画はとても楽しくテンションの上がる、観て損は無い出来上がりだったと思う。事実との相違についてはファンの意見は色々あると思うが、私が観た感想を二篇に分けて書いてみたいと思う。

居場所のない異端児-フレディ・マーキュリー

物語の主人公フレディ(ラミ・マレック)は、空港で単純作業に従事する、どこかぎこちなく地に足のつかない若者として登場する。

英国政府関係の仕事をしていた父によってムンバイの英国式寄宿学校に送られてそこで育つ。ザンジバル革命で17歳で家族と英国に移住を強いられる。教養もあり、育ちも良い。が、英国での現実は貧しい暮らし、狭い家、羽振りの良かった頃から変わることが出来ない高慢な父親、伝統的な母親、妹と暮らす小さな家。多感な時期に何年も離れて暮らしていた家族との慎ましい暮らしと、特権階級的な寄宿舎の暮らしとのギャップ。誰からも理解されないという孤独感。

 そんな暮らしの中で自分で書いた歌詞と歌声、舞台にたった瞬間誰も彼もを魅了してしまう特殊な才能で、解散寸前の学生バンド<スマイル>を一気に人気バンドに押し上げてしまう(もちろん、そのメンバーはロジャー・テイラー(ベン・ハーディ)とブライアン・メイ(グウィリム・リー))。

 そんな中、フレディは一生を変える女性、メアリー・オースティン(ルーシー・ボイントン)に出会う。

Love of My Life-メアリー・オースティン

 メアリー・オースティンは、フレディが亡くなった時に傍に付き添っていた女性。ご存知の通りフレディはゲイをカミングアウトし、亡くなる以前の7年間は同性愛の恋人ジム・ハットンに傅かれて過ごした。

 私はメアリーの存在は、大スターフレディがゲイであることを誤魔化すための目くらまし程度に考えていた(ごめんなさい)が、映画では、このメアリーとの関係性にかなりの量を割いている。

 作中でメアリーはお洒落で遊び慣れた感じの、『Biba』(イギリスの洋服ブランドで現存)の店員として登場する。フレディとメアリーは一瞬で恋に落ちる。メアリーはフレディにお洒落をさせ、励まし、彼を「エキゾチックで美しい」という。やがてメアリーと移り住んだフラットは、ミュージシャンとして忙しい日々を送るフレディにとって自分が完全に受け入れられる、安らぎの場所になる。

 映画を観ている方は繊細で甘えん坊(しかもゲイ)なフレディがこんなごく普通の女性と一緒になって良いのか、とやや不安になる。しかしありきたりに見えたメアリーは実は聾唖の両親の元に生まれ育った事を知る。彼女が家族のために手話を駆使し、フレディと父親とのやり取りを助けるシーンが出てくる。メアリーは常識的な倫理観を持った女性であると同時に、人と違う事を恐れず、他者を慈しむ大きなハートを持っている。フレディとメアリーの繋がりが深まれば深まるほど、その後に訪れる破綻が痛ましく思えてくる。

 自分がバイセクシャル(現実にはメアリーは「どちらかといったらゲイでしょ」と言い放ったという)だという自覚が強まり、矛盾を内に抱えるようになるフレディ。フレディの性的嗜好を薄々感じ取っているメアリーとの関係は次第にぎこちなくなる。共にパートナーとして幸福になれるはずがないと知りつつも、自分の唯一の居場所を失う事を恐れ、メアリーに追いすがる。

メアリーにはフレディが何を求めているのか、自分が何を与えられるのかがわからなくなる。懊悩が重たくのしかかり、最終的に彼女はフレディを突き放さなくてはいけなくなってしまう。

名声と共に深まる孤独

 世界中を飛び回り、賞賛と成功と名声とを得る<クイーン>とは裏腹に、メアリーを失ったフレディの孤独は一層深まる。が、同時に自分の性的な欲求からは逃れられない。バンドのメンバー達もそれぞれに自分の家庭を築いていく。さらに、お互いがああだこうだと激しく自己主張しあって譲らない、対立の多いバンドの人間関係にも疲弊していく。

 フレディがバンドのメンバーに対し「お前らは、自分がいなければありきたりな仕事をする、たまに演奏するだけの趣味のバンドで終わっていた」と言う趣旨の捨て台詞を吐くシーンがあるが、これは暗にフレディ以外の全員が、音楽以外の別の生き方をする選択肢があった事を示していると思う。家族を持つ事もできる、職業も選べた。それはフレディには与えられなかった「当たり前の人生を平凡に生きる」という選択肢だ。

 マネージャーのジョン(『GOT』でお馴染みのエイダン・ギレン)は<ジャクソン・ファイブ>から独立して世界的大スターの座にのし上がったマイケル・ジャクソンの例を上げ、彼にバンドを裏切る事をそそのかす。

ここは映画の中では些細ではあるが、天才マイケル・ジャクソンの末路は誰もが知っているだけに、ゾッとするシーンでもある。

 家族<ファミリー>とは何なのか

 この映画には「家族」という言葉が繰り返し出てくる。それはよそよそしく馴染みきれないフレディの「家族」であり、バンドという「家族」であり、フレディがメアリーと築こうとした「家族」でもある。

 が、最終的には皆がお互いを必要としているという事を長い時間をかけて知る事になる。この映画の中で、バンドはお互いに立ち入りすぎず、同時に大事な事(音楽)に関しては本気で立ち向かう仲間として描かれている。一見自分の主張をぶつけ合っているだけのように見える関係には、お互いの仲は、ちょっとやそっと言い合っても「壊れない」という信頼が根底にあった。

 理解のできない事を理解するふりもしないし、相手のプライベートには必要以上に立ち入らない。が、才能を認め、必要になったら許して受け入れる。一見冷たいようだが、実は懐の広い<運命共同体>として描かれている。

 じゃあメアリーは一体何かと言うと、メアリーはバンドが受け止めきれない『個の部分を受け止める』役割、移民であるがゆえに家族には出来なかった『フレディと社会とを結ぶ』役割を担う存在として、映画では描かれている。それは幼い頃から手話通訳として家族と社会を結んできたメアリーだから出来る事だった。メアリーは親友であり、家族だった。私はそういう風に解釈した。

 ある人は大半の人達よりもずっと相手に求めるものが大きい。孤独な人は、自分の片割れを探そうと必死になる。大抵、そういう形で相手を求める時破綻がやってくる。

 ある時点で殆どの場合人生には「ソウルメイト」というものは存在しない事を知る。が、実はその自分自身を「支える力」は、自分の中にあるわけではなく、結婚相手や恋人が自分の全てを支えきれるわけでもない。自分の周りにいる多くの人々が、ほんの少しずつ自分を支えてくれて、自分を強くしている事を理解していくのだ。

 これを観て<クイーン>や、フレディ・マーキュリーの人生を知ることは出来ないかもしれないが、映画自体は彼の人生が音楽と芸術とそれぞれの違った「深い愛」で織り上げられた綴れ織のように描かれており、すっきりとまとまっていて観やすかった。<クイーン>初心者には音楽と俳優の熱演でしっかり楽しめる映画になっていると思う。

挿入画像:©️20 Century Fox/Youtube 

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