"遊園地都市の進化 / Evolution of Amusement park city"

"遊園地都市の進化 / Evolution of Amusement park city" Group Exhibition at RELABEL Shinsen, Tokyo, Japan
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STATEMENT

遊園地と都市はいくつものアナロジーによって結びつけられる。都市は境界のない拡大された遊園地であると見ることはできないだろうか。

例えば、東京は世界でも有数の遊園地都市である。無数の道路や航路、通信網によって、他の遊園地都市群や産業都市群とネットワークを結びながら、変化し増殖し続けている現代の都市の典型が東京である。

われわれは遊園地都市、特に東京に多くを学び、その機能をさらに拡大した二十一世紀の超遊園地都市を構想する時期に来ている。それは二十世紀初期に多くの学者が予測したような画一化された産業都市のイメージとは全く異なる。その種の産業都市は超遊園地都市の一部に過ぎない。二十一世紀の都市はあらゆるものを吸収し、ただひたすら増殖してゆくのみである。一つの理念で統一されるようなものではない。超遊園地都市は常に予想を裏切るように増殖してゆく。

──島田雅彦・著『ロココ町』より

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『ロココ町』という小説に、登場人物が書いた <遊園地都市の進化> という論文がでてくる。物語内には、論文をもとにつくられた町、ロココ町があり、ここは遊園地だった土地を宅地分譲してできた町だ。この町では、欲望を剥き出しにした暴力や性交といった行為が全面的に肯定されている。ここでは、語ること、表現することが、困難でありうる、人間のアイデンティティーの根幹が超ポジティブに受け入れられている。そして、この町は、明確に東京のメタファーとして描かれている。

ややもすれば露悪的な表現とも言えるが、この “超ポジティブに剥き出しの欲望を肯定する” という視点こそ、いま現在、再開発の真っ只なかの都市、東京を生きる、われわれが共有すべき態度ではないか。

かつて都市計画への反発から活動をはじめ、芸術・文化・社会・政治・日常生活の統一的な批判・実践を試みた前衛集団、シチュアシオニストたちは、活動のアジテーションとして、「お前の欲望を現実とみなせ」という言葉を掲げていた。人には誰しも、それぞれの欲望がある。

それは先の論文において、「二十一世紀の都市はあらゆるものを吸収し、ただひたすら増殖してゆくのみである。一つの理念で統一されるようなものではない。超遊園地都市は常に予想を裏切るように増殖してゆく。」と書かれていることと重なる。それぞれの欲望こそが、人工である都市を進化させる要因だ。

近年、再開発の舞台である渋谷において、また来るべくオリンピックと関連して、奇しくも東京の象徴的イメージとして再流通した大友克洋の『AKIRA』。そのひとつ、東京の大改造を追うNHKによるドキュメンタリーシリーズ「東京リボーン」に対して、大友克洋は次のようにコメントを寄せている。

「東京好きですよ。すごく好きなんです。東京は、常に変化している。都市は生きものだから、それはしょうがないんじゃないですか。(中略) 昭和の残滓を全部切り捨てて、新しいものを作り上げるということ。東京はいつもそんなふうでなきゃいけないんですよ。」

現在進行形で展開される再開発に対して、否定的な声もあるが、もう一度確認したい。統一はできない。だからこそ、超ポジティブに、再開発の状況のなかで欲望を剥き出しにする方法を手にしていこう。

都市のなかでいかに他人の欲望ではなく自分の欲望で生きるか。この指針として、ジェイン・ジェイコブズが『アメリカ大都市の生と死』で示した都市の四つの条件を使うことを提案したい。

一、その地区や、その内部のできるだけ多くの部分が二つ以上の主要機能を果たさなくてはなりません。できれば三つ以上が望ましいのです。
二、ほとんどの街区は短くないといけません。つまり、街路や、角を曲がる機会は頻繁でなくてはいけないのです。
三、地区は古さや条件が異なる各種の建物を混在させなくてはなりません。
四、十分な密度で人がいなくてはなりません。
──ジェイン・ジェイコブズ・著 山形浩生・訳『アメリカ大都市の生と死』より

この条件でアナロジーしながら都市で遊べば、まだ知らぬ熱源に気づいていく。そのためには、まず都市を漂おう。漂えば漂うほど、超ポジティブに都市で遊べるようになる。我々はメタファーを生きているわけじゃない。遊園地都市の進化は、現実だ。

──西田編集長

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本企画の発企として、世界各地のスクウォットの実践をまとめた書籍『生と芸術の実験室スクウォット』から示唆を得ています。「スクウォット」という言葉は、アウトノミア運動を含め、一般的に「不法占拠」の意味で使用されますが、本企画は、本書で示される「合法であるか違法であるかはあまり関係ない」、そして、より多義的に「実験室」であることを重視する。また特に「「空間」に対して所有の概念ではなく「使用」の概念を主唱」する「芸術家による芸術運動としてのスクウォット」に呼応することを試みます。

もし、儚さというものが私たちの日常のなかで常に起こっているということを理解するなら、スクウォットをより一層はっきりと理解することができるだろう。

私たち芸術家はスクウォットを待たず、スクウォットの閉鎖に涙しない。儚さと日常は人生の過程であり、スクウォットもまた生の道のりの上に存在することを知っているからだ。もちろん、私たちはスクウォットを創る際の情熱と楽しさ、涙の大切さを語ることができる。私にとって「スクウォット」とは単なる物理的な空間ではない。それはたった一つだけの最もすばらしい構成体であり、自由のための最善の構造である。言い換えるなら、スクウォットそのものは実は何でもないのかもしれない。それはただ開かれ、閉ざされ、また開かれ、また閉ざされることを繰り返す空間に過ぎない。このような儚い一時性は、ただ私たちの日常のなかで生のごとく進むのみである。

スクウォットは、持てるものが一つもないながらも、創作を必要としていた存在によってつくりだされた。これこそがスクウォットの重要性だ。

──金江・著 金友子・訳『生と芸術の実験室スクウォット』より