「エイリアンズ・ノーマル:惑星都市の進化」草稿

「エイリアンズ・ノーマル:惑星都市の進化」
"Aliens Normal: Evolution of Planetary City"

Curated by NISHIDA Atsushi

キーワード:アナキズム、クィア、ポスト・ヒューマン、トランスフォーマティブ・パフォーマンス、リアル・リアリティ、シチュアシオニストの再生産、欲望、秩序、公共性、芸術と政治性、科学的想像力、神話的想像力、一万年後と一万年前のアートヒストリー

Keywords: Anarchism, Queer, Posthuman, Transformative Performance, Real Reality, Reproduction of Situationists, Desire, Regularity, Publicness, Art and Politics, Scientific Imagination, Mythical Imagination, Art History 10,000 Years Later and 10,000 Years Ago

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要旨

 新しい未来は、新しい神話である──。“科学的想像力による一万年後“ と “神話的想像力による一万年前“ は、同一性を持つ。この問題提起によって問うのは、身体の “変身”、“拡張”、“切断”、といった、“身体への人間の行為能力“ の超越である。人間という種がもつ身体性はどこまで変容可能か。本ショーイングが、提示するのは、来るべき生命の根源となる、想像を超える超越的身体性とその社会実践である。これを "トランスフォーマティブ・パフォーマンス (変容的実行) " と名付け、まさに身体を用いるパフォーマンスアートをもって、その現前を試みる。あらゆる身体への、あらゆる想像は、すでに虚構でなくはない。

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 タイトルにある「エイリアンズ・ノーマル」とは、あらゆる人のもつ、あらゆる欲望が、当たり前に解放される世界を想い描いて題しており、副題の「惑星都市の進化」は、そういった世界になることが、地球という惑星にとって "進化" であることを表している。よって、本ショーイングでは、複数の身体性が集う、一つの空間を、一つの都市と見立てる。

 本ショーイングが、始点とするのは、今現在、強いられている身体性への思い込みとは何かを検証することであり、ここから浮かび上がった、"アナキズム、クィア、ポスト・ヒューマンという論点。これを "トランスフォーマティブ・パフォーマンス (変容的実行) " という手法と接続させることによって、生命の概念の更新を提示する。アナキズムとクィアとポスト・ヒューマンは似ている、今はまだ、違う星に住んでるのでしょうが── [5] [7] 。

 コンテンポラリーアート・シーンにおける、生命の概念の更新、それは、"バイオ・アート" による科学と芸術が共同する実践の蓄積、"ポスト・ヒューマン" [3] や "トランスフォーメーション" [4] といったテーマを掲げた企画展の開催や、身体を扱う表現のみならず人類学を伴う身体改造を指す "ボディ・アート" 、"スペキュラティブ・デザイン" を標榜するデザイン思想の潮流から複数の作品が選出可能なこと、そして、特筆すべきは、近年において、"新しいエコロジー" といったキーワードで称される、人類学などの諸学問との知的共創による潮流が、大規模な国際的のテーマとなる [5] など顕著な注目を集めていること並びに、コンテンポラリーアートとパフォーミングアーツが相互に拡張し、"ニューメディア" として身体を捉える現在形の潮流など、先行実践については枚挙にいとまがない。

  本ショーイングは、個々のパフォーマンスの連なりを、来るべき連帯に向けた仮想都市計画として描きだすことを意図しており、全体に通底する都市論として、前世紀半ばに芸術・文化・社会・政治・日常生活の統一的な批判・実践を試みた前衛集団、シチュアシオニストの理念を用いる。そして、“地球の都市化“ として議論される "プラネタリー・アーバニゼーション研究" (惑星都市理論) " [2] とのハイブリッドとなる、現実を超える “リアル・リアリティ (現実の現実性) “ として全体像を喚起させることを試みる。

 本ステートメントは、これらをもって、本ショーイングが “一万年後と一万年前のアートヒストリー“ に位置づけられることを明瞭かつ緻密にする目的で記述する。身体とは個物でありながら、社会的であり政治的なものであり、実態を超えたより大きなスケールで捉えうるものなのである。

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本ステートメントの構成

序論:

1. “パフォーマンスアート“ と “シチュアシオニスト“ は接続可能か
──実践に向かって、“都市・身体・芸術“ を接続させるべく、全体を貫く理念として、シチュアシオニストを取り上げ、特に同集団の理念の根源は ”欲望” であると位置づける。

意見提示:

2. なぜ今、シチュアシオニストなのか──都市的なる技法 “擬態“の提唱
──アートヒストリーのなかでも ”欲望” が突出して体現されてきた、パフォーマンスアートと、都市論との接続に用いる独自の手法 “擬態“ について述べる。

3. 仮想都市計画という芸術実践──“遊園地都市“ から “惑星都市“ へ
──ショーイングの全体像を、「惑星都市の進化」というキーワードでくくり、複数の身体性が集う、一つの空間を、一つの都市と見立てることを解説する。

論拠提示:

4. 想像と非日常性を起点とした “リアル・リアリティ (現実の現実性) “
──現在の現実の都市における秩序と公共性について懐疑的に考察する。

5. アナキズム、クィア、ポスト・ヒューマンは三位一体である
──筆者が、アナキズム、クィア、ポスト・ヒューマンの3つの論点をもってキュレーションを試みる背景を述べる。

結論:

6. 身体の所有の放棄──"トランスフォーマティブ・パフォーマンス (変容的実行) " に向けて
──芸術と政治性について私論を述べ、検証の果てに、想像を超える身体性と、現実に対して類推可能な社会実践を伴った、まさに “都市的なる共同体“ が現前することを提示する。

補文:

試論:“エイリアンズ・ノーマル“ の条件──“科学的想像力による一万年後“ と “神話的想像力による一万年前“ の同一性について
──実践に向けて、パフォーマーとのディスカッションに用いた、“時間と身体“ “人工と自然“ “都市と惑星“ “超越と変容“ という論点を述べた論考を公開する。

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1. “パフォーマンスアート“ と “シチュアシオニスト“ は接続可能か

 本ショーイングが、全体の指針とするのは、1950年代後半から1970年代初頭にかけて活動した、前衛集団、シチュアシオニストの理念、その発展的な再生産である。同集団は、資本主義社会における大量消費型の表現を “スペクタクル (見世物) “ とみなして批判し、それらへの抵抗となる、“転用“ “漂流“ “心理地理学“ といった手法をもとに、“単一の雰囲気とイベントでのゲームのために組織される集合体によって具体的かつ意図的に構築される人生の瞬間“ [8] と定義される、欲望が解放される瞬間を集団的につくり出す、いわゆる “状況の構築“ を目指して、芸術・文化・社会・政治・日常生活の統一的な批判・実践を試みた。

 世界を変革しなければならない、われわれはまず、そう考える。われわれが閉じこめられている社会と生を最大限に解放する変革、それをわれわれは欲するのだ。この変革はそれに適した行動によって可能になることをわれわれは知っている。

──ギー・ドゥボール, シチュアシオニスト・インターナショナル設立宣言「現代文化における革命と反革命」, 1957年

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 シチュアシオニストは芸術と大きな接点をもち、コブラやグループスパーなどの同時代のアート・コレクティブとの共同をはじめ、文字やシンボルを扱う、ハイパーグラフィーや、ライト・アート、サウンド・パフォーマンスなどの新しい表現手法の開発、あるいは後のサンプリング、カットアップ、リミックスなどの手法を用いるシミュレーショニズムやアプロプリエ―ションの実践に大きな影響を与えた。これらの手法は、シチュアシオニストの大胆なアジテーションにより誤解を受けうるが、その大半は、日常生活の無意識のなかにある意識さえし難い欲望の投影から生み出されたものである。

 これら理念や手法に、2000年代以降のコンテンポラリーアートにおいて顕著となった “社会的転回“ の観点から、今現在の特筆すべき社会課題である、それぞれアナキズム、クィア、ポスト・ヒューマンと関連する、“自立/共生という相互扶助の条件“ “男性/女性というセックスとジェンダー区分“ “人間/非人間の関係性“ という事柄および、本ショーイングの独自の提言となる、“科学的想像力による一万年後“ あるいは “神話的想像力による一万年前“ を、個々の表現に内包することを促すことで、新たな “状況の構築“ を描き出す。これをシチュアシオニストの理念の発展的な再生産とする。

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2. なぜ今、シチュアシオニストなのか──都市的なる技法 “擬態“の提唱

 シチュアシオニストは、1957年にはじまり、1968年に起きたフランスの五月革命への大きな影響をもって、実質的にその理念と実践の達成を果たして活動を終えた。では、なぜシ今、シチュアシオニストなのかと問われるならば、それは当然にシチュアシオニストの理念がいまだ有効な示唆を有しているからである。だがしかし、その実践手法の大半はもはや既存の文化フレームに溶け込んでおり、もっと大胆に言えば、今現在において同集団の理念を主張するにあたっては、社会への直接的実践ではなく、芸術を通した “擬態“ という筆者が独自に提唱する手法を用いた実践こそ有効だと考えるからである。

 “擬態“ とは、望むべきあり方をすでに達成していると信じ、先んじて名乗りをあげ、実践のなかで変容することである。これは、ロジェ・カイヨワが『遊びと人間』(1958年) のなかで “遊びの6つの要素“ (自由な活動、隔離された活動、未確定の活動、非生産的活動、規則のある活動、虚構の活動) とあわせて発表した “遊びの4つの分類“ である、“アゴン=競争“ “アレア=運だめし“ “ミミクリ=ものまね“ “イリンクス=めまい“ のうち、“ミミクリ“ と近しいと言える。これを実践のために発展させて言うならば、自らの規範あるいは、ある領域の規範を別領域において規範のうちであると喧伝して錯乱を試みることである。

 それは現在においてなお一層、社会的スペクタクルとなっている共感や信用、注目といった関係性に対し、自立しならがらも共生するという相互扶助の理念をもって、スペクタクルの内部へと直接的に介入する能動的な態度を伴い、根源的には自らの欲望を解放する規範変更の提言をおこなうが、ここでは自らの欲望が他者との交わりによって弁証法的に変容することを意識的に受け入れる。これによりスペクタクルそのものに自浄作用をもたらす、“破壊と創造あるいは集中と分散を伴う中枢性“ [9] となる仮設性を組み込むことを目論む。つまりは、自らの変容と、権力や権威の増強・存続に抗うために、あるいはその表裏である実行力と象徴性をもつための戦略としての手法である。

  この “擬態“ という手法を芸術を通して用いることの有効性、それは芸術の構造の根幹として発表における仮設性や作品における虚構と現実の往還という性質および、コンテンポラリーアートのもつ人類史における思い込みに異議を唱えること並びに、コンテンポラリーアートヒストリーとは特異点が紡がれたものという本質から、変容や横断を特徴とする “擬態“ と強く共鳴するからである。

 そして先に述べた、「社会的転回」の観点のなかでも、特に現在性が顕著であるアナキズム、クィア、ポスト・ヒューマンが内包する社会課題および、科学と神話からのイマジネーションは、シチュアシオニストそれ自体の固定化されたイメージさえも錯乱させ、そのラディカルな理念を大きく更新しうる。この検証の果てに現れるのは、未だ現存する “スペクタクル“ の権力を容易に超える、“科学的想像力による一万年後“ と “神話的想像力による一万年前“ を併せ持つ、モニュメンタルであるが仮設的な、まさに “都市的なる共同体“ である。

 特筆すべきは、“都市的なるもの“ とは、“中枢性“ を伴った、社会実践という “運動“ へとつながるということである。シチュアシオニストに大きな影響を与えた思想家、アンリ・ルフェーヴルは、これを “空間の完全な動産化“ という言葉を用いて説明し、仮設的な空間とは、“束の間“ であることで、“思いもよらぬ用法・用途、あるいはオルタナティヴな空間の動員によって、一時的であれ中枢性を打ち立てる“ と要約される [9] 。

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 本ショーイングは、シチュアシオニストが都市計画に端を発して諸領域にわたる活動をはじめたように、筆者が継続してキュレーションのテーマとしてきた、剥き出しの欲望を肯定する “遊園地都市“、その進化の果てにある “惑星都市“ を舞台とし、そこに集う住人 (パフォーマー) を “エイリアンズ“ と呼ぶ。これにより目論むのは、シチュアシオニストが何よりも実践に重きを置いたように、この都市の生態系となる、アナキズム、クィア、ポスト・ヒューマンの三位一体 [9] の思想をもつ、“エイリアンズ“ の想像を超える身体性と、その社会実践を描くことである。

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3. 仮想都市計画という芸術実践──“遊園地都市“ から “惑星都市“ へ

 ある小説を読みなおした。『ロココ町』という小説である。筆者は自身のキュレーションの活動指針を “都市での出会いと、アナキズム、クィア、ポスト・ヒューマン“ とし、はじめて手がけたキュレーション展は、この小説のなかの登場人物が書いた「遊園地都市の進化」という論文に対し、敬意をもって同題とした「遊園地都市の進化」(共同企画, 東京・渋谷, 2020年) であり、ステートメントでも引用した思い入れのある一文が以下である。

 遊園地と都市はいくつものアナロジーによって結びつけられる。都市は境界のない拡大された遊園地であると見ることはできないだろうか。
 例えば、東京は世界でも有数の遊園地都市である。無数の道路や航路、通信網によって、他の遊園地都市群や産業都市群とネットワークを結びながら、変化し増殖し続けている現代の都市の典型が東京である。
 われわれは遊園地都市、特に東京に多くを学び、その機能をさらに拡大した二十一世紀の超遊園地都市を構想する時期に来ている。それは二十世紀初期に多くの学者が予測したような画一化された産業都市のイメージとは全く異なる。その種の産業都市は超遊園地都市の一部に過ぎない。二十一世紀の都市はあらゆるものを吸収し、ただひたすら増殖してゆくのみである。一つの理念で統一されるようなものではない。超遊園地都市は常に予想を裏切るように増殖してゆく。
──島田雅彦『ロココ町』, 1990年

 この小説は、論文をもとにつくられた、遊園地の跡地にできた町、ロココ町が舞台となり、筆者は、同ステートメントのなかで “この町では、欲望を剥き出しにした暴力や性交といった行為が全面的に肯定されている。ここでは、語ること、表現することが、困難でありうる、人間のアイデンティティーの根幹が超ポジティブに受け入れられている。“ と記した。また、実践にあたっての指針として、ジェイン・ジェイコブズが示した “都市の4つの条件“ を類推的に使用することを宣言した。

一、その地区や、その内部のできるだけ多くの部分が二つ以上の主要機能を果たさなくてはなりません。できれば三つ以上が望ましいのです。
二、ほとんどの街区は短くないといけません。つまり、街路や、角を曲がる機会は頻繁でなくてはいけないのです。
三、地区は古さや条件が異なる各種の建物を混在させなくてはなりません
四、十分な密度で人がいなくてはなりません。
──ジェイン・ジェイコブズ, 山形浩生 訳『アメリカ大都市の生と死』, 2010年 [1961年]

 同展で試みたことは、シチュアシオニストの理念の再構築であり、特に活動のアジテーションとして掲げられた、“お前の欲望を現実とみなせ“ [10] という言葉を、今現在において解放することで、剥き出しの欲望を伴う複数の身体性が集まった、一つの空間を、一つの都市とすることを果たした。その結果、先述した、アンリ・ルフェーヴルの言葉である “都市とは最高の出会いの場である“ [11] 、“芸術の未来は芸術的ではなく、都市的なのだ。なぜなら人間の未来は都市社会のなかに現れる“ [12] という状況を構築するに至った。また “都市の4つの条件“ を類推的に使用することの可能性は展示にとどまらないと考えており、本ステートメントの構成も、都市のようであると感じてもらえるよう応用を試みて記述している。

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4. 現前する想像と非日常性を起点とした “リアル・リアリティ (現実の現実性) “

 そして、本ショーイングにおいて、「遊園地都市の進化」のより発展を思い浮かべるならば、現実における都市論において、“地球の都市化“ として議論される "プラネタリー・アーバニゼーション研究」(惑星都市理論) " [6] から示唆を得ることおよび、単なる現実を超える “リアル・リアリティ (現実の現実性) “ として、「惑星都市の進化」を発起する。ヴァーチャル・リアリティ (VR=仮想現実) やオーグメンテッド・リアリティ (AR=代替現実) といった、"現実の複数化" のなかで、現実とは従来的な意味を大きく更新している [12] 。リアル・リアリティ (RR=現実の現実性) とは、もはや想像しいては非日常性を起点とせずに成立し得ないといって過言ではない。

 それはまさにシチュアシオニストが欲望をもってして諸領域を横断する統一的な批判・実践を試みたようにである。そしてそれは、同集団が活動の前期においては芸術や諸分野と多分に接点を持ちながらも、後期においては政治運動に焦点を絞っていったことに対し、前者である切り離された芸術的時代のあり得た継続可能性とその変容を、想像をもってして “一万年後と一万年前のアートヒストリー“ に位置づけることになる。そもそも現実において、人類史における芸術の発祥は、通説として思い込まれている洞窟壁画ではなく、そこに描かれた、パフォーマティブな身体なのである。

 本ショーイングにおける個々の表現の構想にあたっては、現実の都市における、身体性の形成装置として、身体と深くかかわる秩序と公共性を踏まえることを喚起する。まず秩序について、秩序とは与えられる受動的なものではなく、自らが望む秩序をそれとする能動的な概念であると定義する。また、アナキズムの創始者である、ピエール・ジョゼフ・プルードンは、“無秩序こそ秩序の根源である“ と発言している。次に秩序の現れである公共性について、公共性とは、公共の利害に関する概念であり、公益とは何かを問うことで、その実態があらわとなる。公益とは、辞書的な意味でいえば、社会一般の利益である。しかしこれを “最大多数の最大幸福“ という功利主義的道徳観と繋げるならば、ここで少数者となる者の幸福は疎外されることが明らかである。これは長年にわたり議論される未だ決着のつかない課題となっているが、筆者は従来の議論とは全く別の視点からこの課題に応答する。

 都市との深い関りのなかで表現活動をつづけるアーティスト、川俣正は、その活動を “個人的公共事業“ [13] という言葉で評されたが、思考実験として、ここでは言葉を入れ替えた “公共的個人事業“ とはいかなるものかを検討してみたい。浮かび上がらせたいのは、“大きな公共性“ と “小さな公共性“ という視点であり、“個人的公共事業“ を前者、“公共的個人事業“ を後者に位置づける。これによって “少数者の最大幸福“ を包摂する小さな公共圏を思い描くことが可能となる。これがアートシーンのなかにおいて、野良である筆者を含む、インディペンデントでありオルタナティブと称される現場の基本理念である。そして、オルタナティブとは、代替えという原義が意味する通り、来るべきときに、その理念をもってして社会の価値観を転換する要となることを強調したい。そして筆者が、こうした現場での実践を通して、今現在、強いられている身体性への思い込みとは何かを検証し、そこから導き出した論点が、アナキズム、クィア、ポスト・ヒューマンの3つとなる。

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5. アナキズム、クィア、ポスト・ヒューマンは三位一体である

 人類史において国家や政府が存在したことは一度もない。こうした思考実験をおこなうのがアナキズム的態度だといえる。アナキズムとは無政府主義と訳されるのであって、反政府主義ではない。アナキズムが何よりも重視するのは、相互扶助であり、国家や政府といった巨大な統治機関が存在しなくとも、われわれは自立を果たして共生していけるという、助け合いの ”やさしい” 思想である。何よりも相互扶助を重視したアナキズムの態度は、先のインディペンデントでありオルタナティブと称される現場と同じ意思を有しているといえる。つまりは、アナキズムとは、単一の思想傾向ではなく、人類学、しいては人類史に通底する根源的実践であると主張したい。また、アナキズムとは不可視を現前させる引きがねとなる。例えば、現実として都市に目を向けると、“明治政府が、「国民」としての統一性を前提とした近代化を推し進めるために、その秩序が内在化できるような身体の形成装置として都市や公園を捉えていた“ “人びとの行為の限定や秩序の受け入れに有効に機能している“ [14] と主張されるように、“大きな公共性“ とはときに抑圧を内包しているのであり、“小さな公共性“ の必要性はここにある。

 クィアとは、原義的には、変態などを意味する蔑称として使われきた言葉に対して、これを自称することは何ら恥じることはない、と主張する価値転換を提示する意思に端を発した思想であり、それらを受け入れた共同体をも意味する。クィアはあらゆる性的な態度の区分による、あらゆる判断を拒絶し、すべての存在を承認するのである。こうしたクィア理論から筆者が学ぶことは、クィアの本意からはそれるが、社会実践をおこなう連帯にあたって、決して仮想敵はつくらぬ、ということである。それは、2011年に筆者が感じた違和として残りつづけている、反格差,反グローバリズムを掲げた市民運動である、オキュパイ運動のスローガン “われわれは99%である“ に対して、1%の金持ち,99%の貧困という主張が事実であり、深刻な問題であることに強く賛同するが、1%-99%という対置を描くことに強い危機感を抱いたからである。人は誰しも何かしらにおいて1%なのである。われわれはあらゆる疎外を容認しないこと、すべてを包摂することを何度でも自問せねばならない。タイトルに冠した「エイリアンズ」に含めた意思は、筆者がクィアに対して敬意を抱く気持ち、そして自らの区分に対する違和を託したものである。

 ポスト・ヒューマンの系譜について、ここでは大きなキーワードとなる人間-非人間という関係について述べる。筆者はキュレーションを手がけた企画展「ノンヒューマン・コントロール」(2020年) のステートメントのなかで、”植物園とは都市がつくりだした人工自然であり、人間は、人工の象徴である都市において、ノンヒューマン= (人間ならざるもの) を資源や機能として利用してきた。このような人間が行為者となって生みだす文化を、その生態と環境への介入も含めて、ポジティブに示したい” と述べ、自然とは手つかずで広大な長い時間を要するものに限らないこと、都市のなかで進化する生物や植物といった生態系に、物質を含めてこそ生命の概念の更新に大きな示唆があることを示した [15] 。また加えて、”自然と文化をわけて、人間の手が入っていないものを純粋な自然だとみなす場合、人間がなにかをつくることに対する否定へと向かっていく、そういった方向ではなく、介入や制作は肯定し、そこに複数性を認めること” を人間と非人間の共生のあるべき態度であると提案した。この否定とは、大きな危険性をはらむものであり、現在も自然保護の指標とされる、1935年に制定された “帝国自然保護法“ (および “動物保護法“ ) がナチスドイツによるものであったことを指摘する。これがナチスが掲げた “血と土“ という思想と共鳴したのである [16] 。

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6. 身体の所有の放棄と "トランスフォーマティブ・パフォーマンス (変容的実行) " に向けて

 いま現時点において、都市について考えるならば、われわれが共体験することとなったウィルスとの共生という事実は避けては通れない現実である。しかし都市とは、統治と自立のせめぎあいのなかで発展する。だからこそ、それでも最高の出会いの場であり、そして変化しつづける場であると信じたい。世界を一変させたこの事象を、危機とするか契機とするかは、せめぎあうあいまいな領域へと身体を預けられるか、そこにかかっている。これを大胆に飛躍させて言うならば、われわれは身体を “所有“ しているという概念を放棄する契機を得ているのではないだろうか。

 このことから筆者が想起するのは、初期のシチュアシオニストに重要な影響を及ぼし、“これまでの革命的なアーバニズムの唯一の実施を表している“ [7] と主張させた、1871年に世界史において初となる市民革命を成しえたパリ・コミューンのスローガン “あらゆる所有は犯罪である“ 。これを単なる過激な言葉だと思うだろうか。しかし、なぜ初期のシチュアシオニストはこうした革命という社会実践と芸術をつなげたのかを確認するならば、“芸術が政治や時事問題から分離されているという概念は、社会の包括的な批評を表現する芸術を無力にするための反動的な考察によって広まったものである“ [7] 、という主張を見出すことができる。芸術とは生と交わるものである限り、政治的でなかったことなど一度たりともないのである。

 いま都市において、問うべきは “人権“ である。それは、“人間存在の傷つきやすさを根拠にすることで可能になる“ [16] 。“人権は、合理性や理念に訴えかけるものではなく、苦痛への共感というかたちで、ひとびとの感覚や感情をとらえることができるものであり、したがって文化や社会の枠組みを超えた、[⋯] 相対主義の制約を超えた社会制度、[⋯] として確立できるのだ“ [17] 。今われわれは何によって連帯可能か。それは、“身体の傷つきやすさ“ をもとにした “人権“ によって成しえる。

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 断言しよう、超ポジティブに剥き出しの欲望を肯定し、都市のなかでいかに与えられた欲望ではなく自らの欲望で生きるかを想像さえすれば、今現在においても “革命“ は可能であると。想像を超える契機は、剥き出しの欲望を伴う超越的な身体性から生み出される。“惑星都市の進化“ はメタファーではない、現実となる。

参考文献
1.『10+1』No.40, 特集 神経系都市論──身体・都市・クライシス, 2005年
2. 平田周 著, 編集, 仙波希望 著, 編集『惑星都市理論』, 2021年
3. ジェフリー・ダイチ『Post Human』, 1992年
4. 中沢新一, 長谷川裕子『トランスフォーメーション』, 2010年
5.『YOU AND I DON'T LIVE ON THE SAME PLANET』, Taipei Biennial, 2020 Guide Book, 2020年
6. 中沢新一『三位一体モデル TRINITY』, 2006年
7. 山の手緑「アナキズムとフェミニズムは似ている、性別は違うのでしょうが」, 『現代思想』, 特集 アナーキズム, 2004年5月号
8.『アンテルナシオナル・シチュアシオニスト』, 1958年-1969年
9. 加藤政洋「アンリ・ルフェーブルの中枢性概念に関するノート」, 『空間・社会・地理思想』14号, 2011年
10. ギー・ドゥボール, 木下誠 訳『スペクタクルの社会についての注解』, 2000年 [1988年]
11. アンディ・メリフィールド, 小谷真千代 訳, 原口剛 訳「都市への権利とその彼方 ルフェーブルの再概念化に関するノート」, 『空間・社会・地理思想』21号, 2018年
12. アンリ・ルフェーヴル, 森本和夫 訳『都市への権利』, 1969年 [1968年]
12.「“時間” の再解釈:天才カルロ・ロヴェッリが指南する “クオンタムネイティヴ” へのマインドセット」『WIRED』Vol.36, 2022年
13. 岡林洋『川俣正のオルタナティヴ・アート アーティストの個人的公共事業』, 2004年
14. 小坂美保「近代日本における都市と身体に関する研究序説:明治・大正期の公園を手がかりに」, 2003年
15. メノ・スヒルトハウゼン, 岸由二 訳, 小宮繁 訳『都市で進化する生物たち: "ダーウィン" が街にやってくる』, 2020年
16. フランク・ユケッター, 和田佐規子 訳『ナチスと自然保護:景観美・アウトバーン・森林と狩猟』, 2015年
17. 後藤𠮷彦「身体の社会学の可能性 人間の「傷つきやすさ」に根ざした理論の構築」, 2006年

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【ディスカッションのための論考】

試論:エイリアンズ・ノーマルの条件
──“科学的想像力による一万年後“ と “神話的想像力による一万年前“ の同一性について

Tentative Assumption: Condition of Aliens Normal
──From a Anarchism-Queer-Posthuman Perspective to Unified Re-criticism and Re-practice

西田編集長 (インディペンデント・キュレーター)
NISHIDA Atsushi (Independent Curator)

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時間と身体

 新しい未来は、新しい神話である──。近く、芸術と科学が生命の未来を更新するとき、それはサイエンティフィック・イマジネーションの賜ものであるのみならず、神話と神秘主義といった過去の諸相と交差する。時間とは常に、浮動的状態と断片的状態の間で振動しており、この相互複合性から、新しい唯物論 (New Materialism) における類推解釈として、”特定の文脈に規定される状況依存を通した粘着的で多孔的な関係性” [1] と定義される、粘的多孔性 (Viscous Porosity) をもつ。時間とは云わば、人間を超えた環境と社会的政治性と関わる、振動する運動体なのである。

 こうした過去と未来が直線ではないという捉え方が普遍であるならば、現在、有機体としての身体を叡知や理性の象徴として実質的に所有する我々は、理性では制御できない不安定で過剰な情緒の吸引装置としての身体を忘却しかけている、人類史において極めて特異な機能錯誤状況を生きていると言うことができる。ここで改めて問うべきは “身体への人間の行為能力“ である。身体の “変身”、“拡張”、“切断”、これらは想像上のみのことであろうか。否、現在社会に投企 (Entwurf) されたわれわれにとって、身体の可能世界 (Possible Worlds) への剥き出しの欲望を現実とみなすことこそが、自立と共生の不二と二分の間において、他者との相互扶助によって生存するために不可欠な認知である。身体とは個物でありながら、社会的であり政治的なものであり、実態を超えたより大きなスケールで捉えうるものなのである [2] 。

人工と自然

 人には誰しも、それぞれの欲望があり、それぞれの欲望こそが、世界を革新する要因である。実践においては、近年のコンテンポラリーアートシーンにおける、コンテンポラリーアートとパフォーミングアーツが相互に拡張し、"ニューメディア" として身体を捉える現在形の潮流に対し、その根源から捉えなおすべく前世紀半ばへと遡り、物事を荒立て予期せぬ方向へと導くパフォーマンスという実践そのものを芸術として提示した “ネオダダ“ “ハプニング“ “フルクサス“ といった運動のなかでも、特に身体を扱う表現のみならず人類学を伴う身体改造を指す “ボディ・アート“ に、科学的想像力あるいは神話的想像力という視点を取り入れ、今現在のみにとらわれない時間性への社会運動論的アプローチを試みる。

 さらに、ジェフリー・ダイチがアートシーンにおいては先駆的に手がけた「ポスト・ヒューマン」展 (1992年) および同問題系に "’00年代の変化を契機として、喚起された問題意識" "「人間とそうでないものの境界」を問う過程でのアクション" [2] を通して接続した中沢新一・長谷川裕子による「トランスフォーメーション」展 (2010年) の概念を、今現在、より切実となった、ウィルスと共生していかざるを得ない社会化において、シチュアシオニストであることを標榜し、“リアル・リアリティ (現実の現実性) “ を超える想像をも伴う都市像、その状況の構築 (Construction of Situations) を実際にショーイングとして現前させることで発展的に継承する。ラディカルな意思を貫く系譜のみがアートヒストリーと呼ぶに値する。

都市と惑星

 これを踏まえ、固定観念を審問するラディカル・デモクラシーの実践といかにつなげるか。まず都市論における、地政学的議論が前提とする、人間-自然の対置において、人間中心主義に割り振られる "生の感じられぬ人間存在" と言わざるを得ない、抑圧された人間像の既定に対し、人間の剥き出しの欲望への行為能力 (Agency) に制約などない、誰一人の生であってさえ個人を出発点に据えた社会システムへの変革は可能である、と喚起的に応答する。この果てに、アナキズムと深く関わる (批判的態度も含む) 、アンリ・ルフェーヴルやマレイ・ブクチン、イヴァン・イリイチ、ギー・ドゥボール、デヴィッド・グレーバーといった思想家が支配関係の再生産として批判する、日常性や労働という欺瞞から解放された、来るべきラディカルな意思の集合体となる、芸術を核心として蜂起する惑星都市 (Planetary City) を描き出す。

 こうした彼方にみえてくる新たな生と世界。浮かべるのは、従来的な身体への固定観念さえも超えた、有り体に言えば、生命の一万年後の姿、そしてそれらの社会実践さえも複数において描くことで、今現在へと逆照射しうる自立と共生のありうるべき状況を示す。科学的想像力による一万年後の生命は、神話的想像力による一万年前の生命と共鳴する生態系であり、"在る" ものではなく "行う" ものとして意味を生み出す、"生きられた過剰 (Lived Excess) " と強い結び付きを得る。それは存在そのものを問う、現象学的存在論 (Phenomenological Ontology) の試みとして、日常的実践を経て、超越的主観性 (Transzendentale uSbjektivität) へと還帰する、未だ明かしえぬ、環世界 (Umwelt) の世界像 (Weltbild) を現前させることになる。つまりは一万年後と一万年前は、円環的な同一性を有すると言える。

超越と変容

 これら理念を伴う "可能なる社会実践" とはいかなるものか。タイトルに冠した「エイリアン」は、リドリー・スコットやジェームス・キャメロンが映画において描き出した異質な生態系 (母性原理の象徴として単為生殖が描かれることは特筆すべき事項である) [3] に属する生命体を象徴とする “異星人“ を指す言葉として定着しているが、本来は “異邦人 (=外部から来たもの) “ を指す言葉である。ここに託す含みは、フェミニズムを系譜として、シモーヌ・ド・ボーボアールやフランソワーズ・ドボンヌ、スーザン・ソンタグ、ダナ・ハラウェイ、ジュディス・バトラー、テレサ・ド・ローレティス、リー・エーデルマンといった相関のうえにある、男性/女性というセックスとジェンダー区分に反省的機能をもたらす「クィア理論」の視点である。

 どんなに小さなものでも、どんなに壮大なものであっても、過剰な欲望をもってすれば包摂できると信じる。それは自然さえも社会構築された概念と捉えるように、生命にまつわる強固で変わりようのないものと理解される諸々の固定観念を覆すためであり、想像をより現実的なものにする最善の方法は自らの身体を自ら超越身体性 (Trance-corporeality) として再構築することである。特定の社会集団から与えられる区分を演じるのではなく、”人は他者に生まれない、他者になるのだ” と、誰しもが他者との関係に巻き込まれて交わる存在者であるなかで、自らの "生きられた過剰" を解放することで超越的な他者となる。つまりは自らの意思で他者となる選択を自立の条件とし、自立が実現できてこそ共生があり、ここに至って従来の価値観だけでは乗り越えがたい現実となる、限界状況 (Limit Situation) に直面した超越者 (Transzendenz) 同士の実存的交わりとして、自立共生による相互扶助が可能となる。この実践倫理の波長域に一切の制約はない。

 自らに強いられた自己変容の過程を振り返り、アナキズム、クィア、ポスト・ヒューマンの三位一体とアートヒストリーの身体的な越境を試みる。こうした視点から芸術をとらえ直すと何が実行できるか。提示するのは、活動的な生として選びとった、"トランスフォーマティブ・パフォーマンス (変容的実行) " による、来るべき生命の姿とその社会実践、それによって得る自明性を疑問視する力である。あらゆる身体への、あらゆる想像は、すでに虚構でなくはない。

参考文献
1. 森正人「粘的多孔性と文化の地理」, 2020年
2. 長谷川裕子「生を召喚するための謀議:芸術表現における「変容」の現在」, 中沢新一, 長谷川裕子『トランスフォーメーション』, 2010年
3. ロビン・ロバート, 永井ゆかり 訳「『エイリアンII』における育ての母と生みの母」, 『現代思想』, 特集 出産・胎児とテクノロジー, 1990年6月号