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学ばなくなること


こんにちは。コです。

8月も半ば。かなり久々の投稿でございます。
この間、様々なチャレンジと課題討伐に全生命力を費やし、noteのことを考える暇もありませんでした。ようやくゆとりが生まれたので、ここからうまく投稿していければと思います。

テーマは「学ばなくなること」。
いきなり何やねんという話題ですが、
大学生は、思ったより勉強していないということ。高校まで何も考えず学校で勉強して、学びに向かう習慣がついていたことは事実。それを経て大学生になり、当時と同じくらいの熱量で勉強できているだろうかと振り返る必要がある。もちろんみんなそうではないが、振り返ってみるとどうだろうか。
 私の場合、勉強しなくなった感覚、勉強「できなくなった」感覚を日々覚える。課題の締め切りが間近なのに危機感が薄い。計画性が欠落してきている。それをわかっておきながら中々変わらない。大学の学び、もとより大学そのものが高校以前までよりも「孤独」であるが故、学んでいて分かってるかどうか不安になる。みんなと一緒かどうか気になってしまう。このような感情が入り乱れて、ますます勉強に身が入らない。学生の本分である勉強ができなくなっては、地域に学んだり主体的に課題解決することは難しくなるだろう。それは自分で学びたくてやってる学びではなく、とりま終えるものでしかなくなり、手段の目的化を激化させる。
 学ぶ権利を行使している以上、学習は自己責任であると考える。その責任を果たそうとする気持ちを、早いうちからやっておく必要があったと後悔している。何かに興味を持ったら突き詰めてみる。好きが大好きになるものに出会えればそれはみんなにとって大きな学びの種になる。
 それらを経て勉強する意味を見出すことができれば、なんとかしようという責任が生まれることは必然である。(これに関しては別記事で詳しく話します。)これから教師になる上で、主体的・対話的な深い学びをつくる手段として、子どもが目の前の学びや課題を自分ごととして捉え、責任を持ってやり遂げる力を育成するにはどうすべきか、考え続ける必要がある。子供の1番身近な師は、親や教師だが、学びにおいては教師の方がその側面は強い。だからこそ、教師自身が、責任をもって事をやり遂げる姿が必要であり、いますぐに身につけておきたい事である。それができれば、学び続ける人に変われるはず。

今日のまとめ
・貪欲にチャレンジ。興味が湧いたものには少し時間をかけて関わってみよ。
・課題のようにみんなと同じ勉強をしていても、中身が違ってくるのは当たり前、理想はない。学びの蓄積があるかないかでオリジナルさはハッキリする。
・高校までと比べて勉強「できなくなっている」のは受け止める必要がある。「社会で生きる知識」もそうだが、今学んでいる事や過去に学んだ事が「社会に出た後も死なない知識」になるように学ぼう。どこかで絶対に生きる。

本日はここまで。また、私のヒトリゴト、聞いてください。