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「矢印の向き」は、自分じゃなくて、相手に向けて

はじめてコーチングを学ばせてもらったのは、ちょっと不思議な講座だった。

当時ライターとしてコラムのお手伝いをしていた会社の別事業にコーチングスクールがあって、企業理解ということで参加させていただいた。やたらにテンション上げて学ぶ2日間の講座は、今よりずっと陰の要素が強かった時期のわたしにはしんどいパートも多かった。それでも、参加して、コーチングの基礎を体感しながら学べたのはとてもよい経験だったと今でも思う。

そのときに、メインで講師を務めたのは50代くらいの女性。司会の仕事をしていたところ、出会いによって講師業をすることになったそう。

「あなたはお話するとき、矢印が相手に向いているから講師に向いていると思った。それができている人ってなかなかいないのよ」

そな言葉が決め手になったそう。コーチング講座の本編とは関係のないところで、わたしは何年経っても彼女のそのエピソードをふと思い出すんだ。


自身も教壇に立っていたし、最後は担任をもたずいろんなクラスに出入りして授業を観ることが多かった。ライブや舞台などのステージを観に行く機会が公私共に多い。その度に、伝わってくる人は矢印の向きが違うなと実感する。目の前の児童•生徒や、客席のファン、またはお芝居なら目の前の役者さん。とにかく、きちんと相手に向けられている。

矢印が自分に向いているという状態は、「今の自分は役割を果たせているか」「みんなの目にわたしは良い状態で写れているか」などと、自分が主語になっている状態なんだと理解している。そういう子って、どんなに可愛くても、歌がうまくても、頭上をすーっと滑っていってしまうようで心まで届きにくいなぁと惜しく思う。

自分をより良い状態で見てもらおうとするのは決して悪いことではないし、必要なこと。ただし、矢印を向けるのは、レッスンやリハーサルまで。本番になったらエネルギーの矢印はすべて向きをそろえること。

先日の取材で、物理で習った(そしてわたしは教えてもいた…)力の合成の話題が出た。力を複数の向きに加えようとすると、エネルギーの大きさは分散する分弱くなる。心を掴みに行くなら、向きを揃えた矢印でど真ん中に向けても足りるか足りないかというところ。全部注がないと、掴めるものも掴めずに終わってしまうんだと思う。

「たくさん練習したので、あとは本番思いっきり楽しんで!」という言葉はよく使われるだろう。あれって実は、それまで散々自分に向けてきた矢印の向きを変えるのにも有効。しかも、楽しんでいると発せられるエネルギーの量が増して、より多くを届けて惹きつけられる気がする。

ここ何か月か苦手な物理に関わる取材をすることがあるのだけれど、ただ難しいものという認識が、こういう日常の些細なところにも影響している気がして面白いなと思い始めたところです。

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