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「写真を撮ってもらうこと」は、自分を客観視できる唯一の方法かもしれない

自分の写真を撮ることはそう多くなかったのが、ここ1か月ちょっとで急激に増えた。

ライブ終わりのアーティストさんとお話したくて、その権利を買っている。これまでそんな文化がある現場に行ったことがなかったので、いまだに毎回どきどきしてしまう。

きっと本来の目的は一緒に写真を撮れることで、それが一回につき1,200円とか1,500円とか。その撮影の前後に、おしゃべりができますよという仕組み。何十秒かずつだけどね、得られるものを考えたら、わたしはぜんぜん安いじゃんと思ってる。

このシステム、本人のお顔を近くで拝見して、お話させてほしい欲しかないわたしにとって写真撮影は完全にグリコのおまけ。好きな子のお写真が自分だけのものとして手元に残るのはこの上なくうれしいけれど、隣に写るわたしは正直切り取ってデリートしたいと、いつも思う。笑


とはいえ、郷に入っては郷に従え。大人しく、畏れ多くも好きな子の隣にわたしも並んで収めてもらう。写真を頻繁に撮ってもらっていると、たくさんの発見があった。

自分に似合う服の色、似合わない色。
すっきり見える髪のアレンジ。
せっかくなら遠慮せずに近寄った方がいい写真になること。
思ったよりレンズをきちんと見られていない。
立っている時の姿勢、自分が思っているよりわるいかも。
腕はとりあえず顔周りに持ってくる。だらんと伸ばしているより何倍も楽しそうに見える。

ちょっとしたことではあるけれど、逆を言えば、こんなちょっとしたことで印象がよくなることを、これまで知らずに生きてきたんだ。人生けっこう損してきたなと思わずには、いられない。写真から得た気づきで、立ち方変えようと意識するようになったし、似合わないなと思った服は数枚手放した。逆に、顔色よく見える色の秋服を少し買い足すなどした。

こういうことって、写真にちょっとだけ可愛く残れるテクニックにはとどまらない。なぜなら周りの人たちは常にその、“ちょっと惜しい”わたしを見続けているんだから。

ちょっとの姿勢。ちょっとの表情。ちょっとの身につける色…
自分の印象が少しだけ良く見える方法を知っていて、毎日を少しだけよく見えるわたしで過ごす。そんなの、人生という長い目で見たら明らかに得することは間違いない。

自分のことは自分が一番見えていない。よく言われる事ではあるが、写真に写るわたしに「あなたって人からはこう見えてるんだよ」と教えてもらい続けたこの期間に得た気づきの数は、予想のはるか上をいっていた。ここまで分かっていないとは。

自分を客観的に見る。そんなことはできないからこそ、ときどき写真に撮ってもらって、客観的に見えている自分を見てみることは、有りかもよ。些細すぎて、きっと人からは一生指摘されないだろうポイントに、気がつくことができるから。これが、客観視を手に入れる唯一の方法なのかもしれないね。

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