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讃美歌で教会と社会を建て直す:三十年戦争後のヨハン・クリューガー (1598–1662) の事業について

 三十年戦争 (1618–1648) とペストによるたいへんな荒廃のあと,教会を,社会を,人々の心を建て直すために一つの事業を始めた人がいました。彼の名はヨハン・クリューガー (Johann Crüger),教会音楽家にして町の音楽監督でもありました。その事業にはまもなく,ある素晴らしい仲間も加わりました。彼らの遺した仕事は,今日に至るまで私たちの心を慰め,文化を豊かにし,生きる力を与えてくれています。

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 本稿は,2012年6月8日,当時在学していた大学の音楽史の授業で課されて行なった短い口頭発表をもとにしています。そのときは一応クリューガーの生涯と仕事全般を扱いましたが,私の関心はあくまで本稿のタイトル通りのことにありました。その後まさにそのテーマで卒業論文も書きましたが,それではnote記事にするには長すぎますから,敢えて2012年の口頭発表のほうを用いることにしました (ただし一部,卒業論文から取ってきた要素もあります)。今回は読み物として書いていますので,参考文献は最後にまとめて記すだけにします。
 発表原稿 (ドイツ語) からそのまま訳した部分も多いですが,自由に書き直したり,加筆したり (特に後半),今回のテーマに関係ないので削ったりしたところもあります。"Kirchenlied", "geistliches Lied", "Choral" といった用語は,通常はそれぞれ「教会歌」「宗教歌」「コラール」(あるいは「衆讃歌」) と訳されるものかと思いますが,今回は一貫して「讃美歌」とすることにしました。今回の話の文脈においては特に問題ないと判断し,またおそらくこの語がイメージを最も伝えやすいだろうとも思ったためです。ただし "Gesangbuch" は,純粋に典礼用の歌 (Kyrieなど) が含まれている場合を考慮し「聖歌集」としています。
 


 
 ヨハン・クリューガーの名と重要性とがドイツで非常によく知られているのかどうか,私は知りません。私の出身国である日本では,彼はほとんど知られていません。彼は17世紀に生き,ベルリンでルター派教会のカントール (教会音楽監督) として働きました。彼は音楽理論や音楽教育に関する重要な書物を著し,主に教会音楽の分野で作曲を行いました。そして何より,彼は17世紀の最も重要な聖歌集の編者であり,また讃美歌の旋律作者でした。

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 ヨハン・クリューガーは,1598年4月9日,ニーダーラウジッツ (Niederlausitz) 地方グーベン (Guben) 近郊のグロース・ブレーゼン (Groß Breesen,現在はグーベンの一部) に生まれました。12歳になると,グーベンのラテン語学校に通いました。このラテン語学校の生徒はもちろん古典語などの学科も習ったのですが,それだけでなく,市の教会での礼拝のために歌の練習もしなければなりませんでした。クリューガーはここでヴルフ (Wulf) という名のカントールから最初の音楽教育を受けた可能性がありますが,確かな話ではありません。

 15歳で長い遊学の旅に出た彼は,ジャリ (Żary;  以下,この段落の地名はすべて現在の領有国の言語での呼び方にします),ヴロツワフ (Wrocław),フランクフルト・アン・デア・オーダー,オロモウツ (Olomouc),レーゲンスブルク,ブラチスラヴァ,ザクセンのフライベルク,双子都市ベルリン=ケルン (現ベルリン。「ケルン」は,大聖堂で有名なドイツ中西部のケルンとは無関係) を回ります。このうちレーゲンスブルクにおいて,彼は自らの音楽家としての形成過程におけるひとつの重要な基礎を得ました。この地でジョヴァンニ・ガブリエーリの弟子であるパウル・ホンベルガー (Paul Homberger) に師事したことにより,当時の音楽における最新の様式と書法を学ぶことができたのです。
 この遍歴の最後,1620年に彼はヴィッテンベルクに行き,大学で神学を学びました。当時,カントールになるには神学を修めなければならなかったからです。

 1622年にクリューガーは,"PARADISUS MUSICUS" という自作の3声の宗教声楽曲集を出版します。これがベルリンの市参事会に高く評価され,彼は同市のニコライ教会のカントールとして招聘されました。ニコライ教会は当時のベルリンにおいて最も重要な教会であり,そのカントールといえば,市全体で最も重要な音楽家の地位でした。クリューガーは同時に,「ベルリンの音楽監督」ともなったのでした。

 こうして彼は24歳でベルリンに (双子都市ベルリン=ケルンに) 移り,以降40年間,世を去るまでこの町に留まることになります。双子都市ベルリン=ケルンはこのころ,ブランデンブルク選帝侯の居城の所在地ではありましたが,まだ大きな都市ではありませんでした。
 ニコライ教会のカントールの職務には灰色修道院ギムナジウム (Gymnasium zum Grauen Kloster) で教えることも含まれていましたので,クリューガーは算術や言語や教理を教えましたが,もちろん何といっても音楽の授業を行いました。具体的には,歌うこと,楽譜を読むこと,それから音楽理論を教えたのです。
 そうした中からいくつかの理論書や教程書が生まれたほか,引き続き多声宗教曲の作曲も行い,彼はこれ以降ほとんど生涯の終わりまで,ただ1回の例外を除いて,1~5年おきにいつも何か出版し続けます。特に重要なものは1630年の "Synopsis Musica" という音楽通論・作曲法教程で,J. S. バッハのころまで影響力を持っていたそうです。

 しかし,クリューガーの名を不朽にすることになるのは音楽理論でも多声音楽の作曲でもなく,むしろ聖歌集や讃美歌の旋律です。ところが,どうも彼は,最初からこの仕事に関心を持っていたわけではないように見受けられます。というのも,24歳のときから盛んに理論書や多声曲集を発表していたこの人は,最初の聖歌集を出したときには42歳になっていたのですから。いったいどのような経緯で,彼は自ら聖歌集を編んで出版しようと思うに至ったのでしょうか。

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 クリューガーがベルリンのカントールの任についたとき,三十年戦争 (1618–1648) はもう始まっており,この町もまもなく,この時代の破滅的危機に巻き込まれてゆきました。ブランデンブルク選帝侯国の軍備は全く不十分でしたので,何度も攻め込まれて国土は荒らされ,選帝侯は一度ならずベルリン=ケルンから避難していました。また,戦争だけでなくペストをはじめとする疫病がベルリン=ケルンを何度も襲いました。町では,身寄りのない,あるいは食べるものがない (食糧難が起きていたほか,戦争のため住民は多くの供出を強いられていたのです) 数百の人々が助けを求めてさまよっていたといいます。戦争前に12000人ほどであったベルリン=ケルンの人口は,戦後には7500人ほどに激減していました。

 こうした状況の中クリューガーも,同居していた母親,最初の妻,そして子どもたちを次々に失います。最初の妻が亡くなった1636年,彼自身もペストに感染して危篤状態に陥ったほか,その3年後にも重篤な状態になるあまり,市の公式文書に「クリューガーはペストのため死亡した」と誤って記録されてしまったほどでした。
 先ほど,1622年以降のクリューガーは「ただ1回の例外を除いて」1~5年おきに何か出版していたと述べましたが,その「ただ1回の例外」というのがこの時期でした。"Synopsis Musica" を発表した1630年からの10年間,彼は本も楽譜も一切出していないのです。

 この10年間に彼が何を感じ,何を考えていたのか,私たちはもちろん正確に知ることはできません。しかし,それを推察するための手がかりとなりうるものが,少なくとも一つ残されています。

Newes vollkömliches Gesangbuch, Augspurgischer Confession, Auff die in Chur= vnd Marck Brandenburg Christliche Kirchen, Fürnemlich beyder Residentz Städte Berlin vnd Cölln gerichtet, In welchem nicht allein vornemlich des Herrn Lutheri, vnd anderer gelehrten Leute, Geist= vnd Trostreiche Lieder, so bißhero in Christl: Kirchen bräuchlich gewesen: sondern auch viel schöne newe Trostgesänge, Insonderheit des vornehmen Theol: vnd Poeten HErrn Johan Heermans, zu finden, mit außen lassung hingegen der vnnötigen vnd vngebräuchlichen Lieder, […] Von Johan Crüger, Direct. Mus: Berol: ad D. Nicol: […] 1640.
アウクスブルク信条に基づく新しい完全な聖歌集。ブランデンブルク選帝侯国 (辺境伯領),特に選帝侯居城所在地ベルリン=ケルンのキリスト教会向け。ルター氏をはじめとする学識ある人々の手になる,これまでキリスト教会で用いられてきた霊的な歌・慰めの歌だけでなく,多くの美しい新しい慰めの歌,特に,気高い神学者にして詩人であるヨハン・ヘールマン氏のそれを収録している。それに対して,不必要な歌や用いられていない歌は除いた。[……] ベルリン・ニコライ教会 [?] 音楽監督ヨハン・クリューガーによる,[……] 1640年。

それは,彼が10年間の沈黙を破って1640年に発表した,この聖歌集です。これは同時に,彼が編纂した最初の聖歌集でもありました。

 タイトル (書名というものについての考え方が現在とは異なっていたのか,非常に長いものとなっていますが) の中で彼はヨハン・ヘールマン (Johann Heermann, 1585–1647) の名に特に言及していますが,ヘールマンの作はこの聖歌集に39編収められています。これは,ルターの作 (31編) より多い数です。この39編は,ヘールマンが1630年に出版した "DEVOTI MUSICA CORDIS […]" または1636年出版の "Sontags= und Fest=Evangelia […]" からとられています (ただし前者については,クリューガーが用いたのは1636年に出た第2版です)。これらの出版年は,クリューガーの聖歌集から見てごく最近であったということ自体においてすでに興味深いものですが,まさに彼の「沈黙の10年」に当たっているという意味でも注目されます。
 住んでいた地域は異なるものの,この時代に典型的なさまざまの苦難に見舞われ,同時代の人々からさえ「もう一人のヨブ (シュレージエンのヨブ)」と呼ばれるほどに痛ましい運命をたどったヘールマンの詩句は,つらい時期のさなかにあったクリューガーにとって大きな慰めとなっていたのでしょう。そして彼は,この「新しい慰めの歌」という宝を,同じように苦しんでいる周りの人々にも届けようとしたのでした。

 しかし彼は,この宝をただ一人一人の隣人に届けようとしただけではありませんでした。この『アウクスブルク信条に基づく新しい完全な聖歌集』の「新し」さは,ルター派教会のいわば公式の聖歌集 (1545年のいわゆる『バプスト聖歌集』など) の伝統に立つことと収録歌の刷新を図ることとを両立したところにあります。それまでは,ほぼ固定したレパートリーの公式聖歌集か,新しい歌を収録しているけれども個人・家庭で用いるための私的な聖歌集かしかなかったのです。クリューガーは,三十年戦争と疫病の惨禍を経た (1640年の時点ではまだそれは終わっていませんでしたが) 時代のための,私的領域だけでなく教会でも使える新しい聖歌集を作ることで,個人個人だけでなく共同体をも慰め励まそうと,建て直そうとしたのです。

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 1642年あるいは1643年に,パウル・ゲルハルト (Paul Gerhardt, 1607–1676) がベルリンにやってきます。彼は今でこそルターと並んで最も名高いドイツ語の讃美歌詩人ですが,当時は無名の家庭教師にすぎませんでした。詩人としてのパウル・ゲルハルトを発見したのは,ほかならぬヨハン・クリューガーだったのです。二人はよき友人となり,ここに讃美歌史上のいわゆる「運命の時 (Sternstunde)」が始まります。
 1647年,クリューガーは聖歌集の第2版を "PRAXIS PIETATIS MELICA (歌による敬虔の修練) […]" と改題して出しましたが,そこには18編のゲルハルトの作品が収録されています。第5版 (1653年) になるとこれは82編に,第10版 (1661年) では90編に増えます。その中には次のような,今日の教会でもよく歌われる歌,あるいはJ. S. バッハをはじめとする大家の作品 (カンタータやオルガン曲など) のもとになったため,教会の枠を越えて文化的に重要な役割を果たしている歌が含まれています (括弧内は初出年です)。

  • Nun ruhen alle Wälder (1647)

  • O Welt, sieh hier dein Leben (1647)

  • Auf, auf, mein Herz, mit Freuden (1647)

  • Nun danket all und bringet Ehr (1647)

  • Lobet den Herren alle, die ihn fürchten (1653)

  • Wie soll ich dich empfangen (1653)

  • Fröhlich soll mein Herze springen (1653)

  • Ich steh an deiner Krippen hier (1653)

  • Zeuch ein zu deinen Toren (1653)

  • Sollt ich meinem Gott nicht singen? (1653)

  • Warum solt ich mich denn grämen? (1653)

  • Befiehl du deine Wege (1653)

  • Geh aus, mein Herz, und suche Freud (1653)

  • O Haupt voll Blut und Wunden (1656)

 "PRAXIS PIETATIS MELICA" はまもなく大人気となり,かつロングセラーともなりましたので,これらの歌は広くそして長く伝えられてゆくことになりました。

 ゲルハルトの作品に限らず,"PRAXIS PIETATIS MELICA" によって広まった重要な讃美歌はたくさんあります。そのうち,旋律をクリューガー自身がつけており,かつJ. S. バッハの作品 (単体の4声コラールとして伝えられているものは除くことにします) で用いられているものだけを挙げますと,

  • Ach wie flüchtig, ach wie nichtig (詩:ミヒャエル・フランク。もとになった旋律あり) …… BWV 26 (カンタータ), BWV 644 (オルガン曲)

  • Herzliebster Jesu, was hast du verbrochen (詩:ヨハン・ヘールマン。もとになった旋律あり) …… BWV 244 (マタイ受難曲), BWV 245 (ヨハネ受難曲) など

  • Jesu, meine Freude (詩:ヨハン・フランク) …… BWV 227 (モテット), BWV 610 (オルガン曲) など多数

  • Nun danket alle Gott (詩:マルティン・リンカルト) …… BWV 79, BWV 192 (以上カンタータ), BWV 657 (オルガン曲)

  • Du, o schönes Weltgebäude (詩:ヨハン・フランク) …… BWV 56 (カンタータ)

  • O Ewigkeit, du Donnerwort (詩:ヨハン・リスト。もとになった旋律あり) …… BWV 20 (カンタータ), BWV 60 (カンタータ)

  • Schmücke dich, o liebe Seele (詩:ヨハン・フランク) …… BWV 180 (カンタータ), BWV 654 (オルガン曲)

といった歌が並びます。なお,ここで3度名が挙がっているヨハン・フランク (Johann Franck, 1618–1677) はクリューガーと同郷の人物です。 

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 こうして,生涯の最後の3分の1ほどを何よりも讃美歌の仕事に捧げたクリューガーは,"PRAXIS PIETATIS MELICA" 第10版を出版した翌年の1662年,63歳でこの世を去りました。単に "der Crüger (ザ・クリューガー)" といえばこれを指すほどになっていたというこの聖歌集の人気は衰えず,その後も改訂・出版が続けられ,ベルリンで出版されたものだけでも45版に達しました。

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Habt fröhliches Vertrauen
und Glauben, der da siegt!
So wird Gott wiederbauen,
was itzt darniederliegt.
喜びに満ちた信頼と
信仰とを持て,それこそ実に勝利するものだ!
そうすれば神は再建なさるであろう,
今は病み伏しているものを。

パウル・ゲルハルト "Merkt auf, merkt, Himmel, Erde" 第26節より

 パウル・ゲルハルトは,美しく慰めに満ちた讃美歌を生み出すことは,三十年戦争後の再建のため重要な仕事であるという考えを持っていました。クリューガーもこのような意図・意志を持っていたということは,彼の聖歌集のタイトル "PRAXIS PIETATIS MELICA (歌による敬虔の修練)" がよく示しています。

 正統主義時代 (1577年の「和協信条」によってルター派内部の争いが一応終結した後の時代) のルター派の人々は,信心書や祈祷書の作成,キリスト教教育の改善などを通し,よりよい「魂の世話」を目指して努力していました。そしてこのような活動は,三十年戦争のただなかにおいて,またその後の時期において,ますます重要になりました。"Praxis pietatis (敬虔の修練)" は,このような時代の信心書におけるキーワードの一つだったのです。信仰の深化・強化を助けることにより,教会を,社会を,人々の心を再建すること,これは当時の大きな関心事でした。

 このような中,クリューガーは「歌による (melica)」敬虔の修練の道を開くことで,この再建の仕事に彼ならではの貢献をしたのでした。それによって生まれ,伝えられてきた歌は,今日に至るまで人々に愛唱され,教会の礼拝で用いられ,さまざまな作曲家の作品の素材ともなってきました。こうして彼の仕事は,三十年戦争後の建て直しにおいて大きな役割を果たしただけでなく,今もなお,私たちの心を,信仰を,文化を建て上げてゆくための素晴らしい礎であり続けているのです。
 


 
参考文献

  • Bunners, Christian, Johann Crüger (1598–1662) – Berliner Musiker und Kantor, lutherischer Lied- und Gesangbuchschöpfer. Aufsätze, Bildnisse, Textdokumente, Berlin 2012.

  • Bunners, Christian, Paul Gerhardt. Weg – Werk – Wirkung, Berlin und München 1993; 4. überarbeitete Auflage: Göttingen 2007.

  • Hoffmeister, Joachim, Der Kantor zu St. Nikolai. Beschreibung des Lebens von Johann Crügern, Direct. Musices zu Berlin, wo und wann er in diese Welt kommen, was er darinnen gelernet, erfahren, ausgestanden und gewirket, Berlin 1964.

  • Ikeda, Fukutaro, Johann Crügers Newes vollkömliches Gesangbuch Augspurgischer Confession […]: Der Anfang einer Wiederaufbauarbeit durch Kirchenlieder nach großer Krise und Katastrophe, Bachelor-Arbeit, 2015; sprachlich verbesserte Version 2017.

  • Marshall, Traute Maass, "Gerhardt, Paul [Paulus]", in: Grove Music online (2023年2月9日閲覧).

  • Rössler, Martin, „Gesangbuch“, in: Die Musik in Geschichte und Gegenwart, 2., neubearbeitete Auflage, Kassel u. a. ab 1994.

  • Schmidt, Martin, Pietismus, Stuttgart u. a. 1972 (3. unveränderte Auflage: 1983). 日本語版:マルティン・シュミット著,小林謙一訳『ドイツ敬虔主義』,東京 (教文館) 1992.

  • Stalmann, Joachim, „Crüger, Johann“, in: Herbst, Wolfgang (hrsg.), Wer ist wer im Gesangbuch, 2. durchgesehene und aktualisierte Auflage, Göttingen 2001, S. 66–69.

  • Zeller, Winfried, „Einleitung“, in: Ders. (hrsg.), Der Protestantismus des 17. Jahrhunderts, Bremen 1962; Taschenbuchausgabe: Wuppertal 1988, S. XIII–LXVI.

  • 「葛の葉」氏のWebサイト「バッハの教会カンタータを聴く」

カバー画像:
Crüger, Johann (hrsg.), Newes vollkömliches Gesangbuch Augspurgischer Confession [...], Berlin 1640, S. 86–87 (Nr. 39, "Herzliebster Jesu, was hast du verbrochen").


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