ミサ・ソレムニスと第九交響曲を作ったベートーヴェンの理想:キリスト教とヒューマニズムの統合

 Maynard Solomon (メイナード・ソロモン) が1977年に英語で行なった講演 (Beethoven: The quest for faith) の一部をご紹介するのですが,手元にあるのはその独訳であり,それを5年前に和訳したのが次に掲げる訳文です。つまり重訳であることをお断りします。もとの講演のテキストはBeethoven-Jahrbuch 10, 1978/1981 (1983), pp. 101–119にあるそうです。

≪1818年に彼 [ベートーヴェン] は,非凡な偉大さを持ったひとつの交響曲のアイディアを,言葉で短く記している。そのアイディアによると,その交響曲は,古代ギリシャの聖なる諸要素とキリスト教の聖なる諸要素とを結び合わせるものとなるはずである――それは,彼が自分自身のためにさまざまな信仰の方向を統合しようとした【訳注:ベートーヴェンは1814年くらいから大きな精神的危機に陥り,インド哲学書なども含む古今東西の宗教書を読んでいた】のと同様のことを,音楽によっても行おうとする試みであったのかもしれない。(中略)
 このアイディアは,のちに第九交響曲において結実することとなるが,この第九交響曲は,『ミサ・ソレムニス』とほぼ同時にスケッチされていた作品であった。この両者は,宗教的理想と非宗教的あるいはヒューマニズム的理想とを統合したいというベートーヴェンの願いを目に見えるものにしている。(中略)「ソクラテスとイエスとが私の手本であった」とベートーヴェンは1820年に会話帳に記しているが,この言葉は,手本をキリスト教と古典古代の両方に求めることを可能にした,彼の偏見のなさを示すものだとも読める。彼は最終的に,神の国と人間の国とを区別しなかった。≫ (Solomon, Maynard, "Beethovens Suche nach dem Glauben", in: Birgit Lodes und Armin Raab (hrsg.), Beethovens Vokalmusik und Bühnenwerke. Das Handbuch, Laaber 2014, S. 230)

 「宗教的理想と [……] ヒューマニズム的理想とを統合」すること,これは私自身がずっと漠然と抱いている理想あるいは夢のようなものでもあり,しかもベートーヴェンは私にとって特別な存在ですので,この箇所を読んだとき心が燃え,その勢いで訳して5年前Facebookに投稿したのでした。

 この観点からベートーヴェンの信仰,あるいは彼も多かれ少なかれそこに属していたはずである当時のカトリック思潮 (カトリック啓蒙主義といわれるもの) への興味を大いに持ったりもしたのですが,そちらにはもうひとつ深入りできないまま,現在はほとんどすっかり中世 (特にグレゴリオ聖歌とその背景) に関心が移っています。しかしこれがまた,実は上記のような理想という点でも魅力的なのです。強い信仰を持つだけでもなく,高度な文化 (人間性の十分な開花) を持つだけでもなく,両者をいずれも深めしかも統合して (より正確にいうと,神への希求という究極目的のもとに秩序づけて) 生きる,という一つの理想が実現していた世界を,中世の修道院に見ることができるのです。それを私に教えてくれた本,ジャン・ルクレール『修道院文化入門  学問への愛と神への希求』を抜き書きしながらじっくりと再読するのが,最近の日々において特に幸せな時間です。

≪この [ユスティノスが唱え,エイレナイオスが継承している] 神学の中心は,あらゆるものがキリストのうちに「再統合」(recapitulatio) されているという考えである。エイレナイオスがこの考えによってまず意味しているのは, 〈御言葉〉[イエス・キリスト] が受け入れたのはまるごとそっくりの人間であること,そしてその人間に〈聖霊〉が腐敗しない性質を伝えたということである。ただし, 〈御言葉〉の作用によって受け入れられたのは,単に人間の本性だけではなく,その過去のすべてを含めた具体的存在としての人間である。≫ (平凡社ライブラリーの『キリスト教史』第1巻,p. 262)
 世俗文化でキリスト教に関係ないものは何もない。人間性のあらゆる可能性の実現をもって初めてキリスト教は完成する。

Facebook (近況),2019年1月24日投稿
(このnote記事によく合うと思い,2024年1月24日に追加しました)


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