入祭唱 "Venite, adoremus Deum" (グレゴリオ聖歌逐語訳シリーズ25)

 GRADUALE ROMANUM (1974) / GRADUALE TRIPLEX pp. 271-272; GRADUALE NOVUM I p. 238.
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更新履歴

 些細な修正は記録しない。

2023年1月22日 (日本時間23日)

  •   「教会の典礼における使用機会」の部に加筆した。特に,2002年版ミサ典書でどうなっているかについて書き加えた。そこに書いたことの関係で,「対訳」の部にも少し加筆した。

2022年2月4日 (日本時間5日)

  •   「教会の典礼における使用機会」の部を少し書き直した。

  •  全体訳を日本語として自然な語順になるよう直した。

  •   「喜んで跳び上がる」という訳語を「喜び躍る」という一般的なものに改めた。

  •  "ploremus" という語がヘブライ語テキストとはっきり異なっている件についてのコメント (「対訳」の部の第3文のところ) を書き改めた。

  •  音源を追加した (テキストと全体訳の下)。

2019年2月6日

  •  投稿
     


【教会の典礼における使用機会】

 1970年のORDO CANTUS MISSAE (GRADUALE ROMANUM [1974] / TRIPLEXおよびGRADUALE NOVUMはこれに従っている) では,年間第5週に割り当てられている。ほかには,「臨終が近いときの聖体拝領のためのミサ」(四旬節中) や「至聖なるエウカリスティアについての随意ミサ」(四旬節中) で用いることができる歌の一つでもある。

 2002年版ミサ典書でも年間第5主日 (およびそれに続く週) に割り当てられているものの,"ploremus ante eum" の一文が削られている。なぜここが削除されたと思われるかについては,「対訳」の部をお読みいただきたい。「臨終が近いときの聖体拝領のためのミサ」と「至聖なるエウカリスティアについての随意ミサ」のところにはこの入祭唱は載っていない。

 1962年版ミサ典書 (現在,伝統的なミサ,すなわち先の典礼改革が行われる前の形でミサを挙行する際に用いられる典礼書) では,9月の「四季の斎日」(春夏秋冬それぞれの初めごろに1回ずつある,3日間の節食と悔い改めの日。水・金・土曜日) の土曜日にこの入祭唱が割り当てられている。
 
8~9世紀の時点でどうたったかを知るべくAMSを見ると,入祭唱に関係ある5つの聖歌書中3つが,やはり9月の「四季の斎日」の土曜日のところにだけこの入祭唱を記している (あと2つの聖歌書のうち1つは空白,もう1つは当該部分が残っていない)。

 1970年のORDO CANTUS MISSAEにおいて年間第4週に割り当てられている入祭唱 "Laetetur cor" がもともと四旬節四季の斎日 (9月,金曜日) の歌であったということはすでに述べたが,年間第4週・第5週と,本来斎戒期に属する歌が歌われるようになっているのは,伝統的には四旬節的な性格を持つ期間がもっと早く始まっていた (七旬節) ことと関係があるのかもしれない。つまり,年間第4週 (1月28日~2月3日のどこかで始まる) や第5週 (2月4~10日のどこかで始まる) というのは,伝統的には七旬節 (1月18日~2月22日のどこかで始まる) に入っていることがしばしばある時期だということである。
 
このようなことは,年間第5週については特に強くいえることである。単に第4週より後にくるというだけでなく,毎年必ず2月2日より後だからである (伝統的に,降誕祭/公現祭の余韻が続く時期が終わるのは2月2日なのである)。その入祭唱を今回扱うわけだが,テキストの中に灰の水曜日の入祭唱を想起させる部分がある (後述) こともまた,四旬節に向かってゆく時期の性格を感じさせるものである。
 まあ,第2バチカン公会議後の典礼改革において全ローマ教会としての四季の斎日の規定を廃したことで行き場のなくなった入祭唱を割り当てやすいところに割り当てただけで,この時期であることに特段の意図はなかった可能性もあるが。
 

【テキスト,全体訳,元テキストとの比較】

Venite, adoremus Deum, et procidamus ante Dominum: ploremus ante eum, qui fecit nos: quia ipse est Dominus Deus noster.
Ps. Venite, exsultemus Domino: iubilemus Deo salutari nostro.
【アンティフォナ】来なさい,神を拝もうではないか,主のまえにひれ伏そうではないか。私たちをお創りになった彼の御前で泣こうではないか。なぜなら,彼は主,私たちの神なのだから。
【詩篇唱】来なさい,主に向かって喜び躍ろうではないか。私たちの救いである神に歓呼の声を上げようではないか。

 ↑ GRADUALE TRIPLEXに基づいて歌われている。

 アンティフォナの出典は詩編第94 (一般的な聖書では95) 篇第6–7a節であり,詩篇唱にも同じ詩篇が用いられている (ここに掲げられているのは第1節)
 詩篇唱のテキストはVulgata=ガリア詩篇書 (Psalterium Gallicanum) にもローマ詩篇書 (Psalterium Romanum) にも一致するが,アンティフォナはいずれとも少しずつ異なっている (下表)。内容はほぼ同じなので,単にほかのラテン語聖書をもとにしているだけかもしれない。(「Vulgata=ガリア詩篇書」「ローマ詩篇書」とは何であるかについてはこちら)


【対訳】

【アンティフォナ】

Venite, adoremus Deum,
来なさい,神を拝もうではないか,

et procidamus ante Dominum:
そして主のまえにひれ伏そうではないか。

ploremus ante eum, qui fecit nos:
彼の御前で (声を上げて) 泣こうではないか,私たちをお創りになった (彼の御前で)。
別訳 (普通の日本語の語順にしたもの):私たちをお創りになった彼の御前で (声を上げて) 泣こうではないか。

  •   「私たちをお創りになった (彼)」というところは,このような文脈で出ると,灰の水曜日の入祭唱 "Misereris omnium" にある "nihil odisti eorum quae fecisti (あなたは,お創りになったものを何ひとつお嫌いになりません)" という言葉を想起させもする。

  •  ヘブライ語原典から訳した普通の聖書 (ヒエロニュムスの第3回の仕事 [Psalterium iuxta Hebraeos] やNova Vulgataといったラテン語聖書も含む) では,この箇所の「泣こうではないか (ploremus)」は「膝を屈しようではないか (ラテン語では "flectamus genua")」となっている。「泣こうではないか」は七十人訳ギリシャ語聖書に由来する (κλαύσωμεν)
     
    現在残っているヘブライ語テキストは「膝を屈しようではないか」としか読めないのだが,この語は「泣こうではないか」という語と綴りが似ている (後者に1字挿入すると前者になる) ので,昔はヘブライ語でも「泣こうではないか」という異文が存在したか,そうではなく単に七十人訳が誤訳したかなのだろう。
     事情はどうあれ私は「泣こうではないか」のほうが好きで,聖書では軒並み「膝を屈しようではないか」に改まっている中,聖歌においては "ploremus" の語が今に至るまで保存されてきてよかったと個人的には思う。
     しかし,今の教会で用いられている聖書と異なってしまっていることに変わりはない。前述のように2002年版ミサ典書において "ploremus ante eum" の3語が削られているのは,おそらくこのためだと思われる。それにしても,今の翻訳で置き換えるのではなく,この部分そのものを削ってしまうという処理をしたのはなぜか,興味あるところである。

quia ipse est Dominus Deus noster.
なぜなら,彼は主,私たちの神なのだから。
別訳:なぜなら,彼は私たちの神である主なのだから。

  •  "Dominus (主)" と "Deus noster (私たちの神)" とが同格になっており,上記いずれにも訳せる。個人的には,どちらかといえばだが,「私たちの神」ということを強調すべく (その言葉で締めくくるべく) 上の訳を採りたい。原文で "noster (私たちの)" という語が最後に来ていることをある程度重く見たいというのもある。

  •  しかし "Dominus (主)" のほうを強調する意義というのも十分に考えられる。旧約聖書において,日本語で「主」,ラテン語で "Dominus" となっているところは,ヘブライ語原典では神の名「ヤーヴェ (ヤハウェ)」が記されているところである (神の名をそのまま口にするのは畏れ多いということで「アドーナイ [主]」と言い換える慣習があるのを,諸言語の聖書でも引き継いでいるもの)。単なる抽象的な・漠然とした「神」でなく,私たちが名前を知っており個人的にかかわって生きている,ほかならぬあの神,という詩篇の思いを,この "Dominus" の奥に読み取ってもよいのである。そういう神だからこそ,弱いところも含めて自分をよく理解し受け入れてくれている人の前でのように,「彼の御前で泣こうではないか」ということになるのである。

  •  この箇所ははっきりと,灰の水曜日の入祭唱 "Misereris omnium" のアンティフォナの最後 "quia tu es Dominus Deus noster (なぜなら,あなたこそ主,私たちの神 [私たちの神である主] だからです)" を想起させる。

【詩篇唱】

Venite, exsultemus Domino:
来なさい,主に向かって喜び躍ろうではないか。

iubilemus Deo salutari nostro.
私たちの救いである神に歓呼の声を上げようではないか。
 

【逐語訳】

【アンティフォナ】

venite 来なさい (動詞venio, venireの命令法・能動態・現在時制・2人称・複数の形)

adoremus 拝もうではないか (動詞adoro, adorareの接続法・能動態・現在時制・1人称・複数の形)

  •  接続法・1人称・複数は勧誘 (英:let's…) を表すのに用いられる。

Deum 神を

et (英:and)

procidamus ひれ伏そうではないか (動詞procido, procidereの接続法・能動態・現在時制・1人称・複数の形)

ante Dominum 主の前に,主の前で (ante:~の前で,Dominum:主 [対格])

ploremus 泣き叫ぼうではないか,(声を上げて) 嘆こうではないか (動詞ploro, plorareの接続法・能動態・現在時制・1人称・複数の形)

ante eum 彼の前で (eum:彼 [対格])

qui (関係代名詞,男性・単数・主格)

  •  直前の "eum" を受ける。

fecit つくった (動詞facio, facereの直説法・能動態・完了時制・3人称・単数の形)

nos 私たちを

quia なぜなら~だから

ipse 彼が

  •  本来「~自身」(英:myself/yourself/himself。男性・単数の形なので可能性としてはこの3つ) という意味の語だが,古代末期のラテン語では単に「彼」の意味で用いられることがある (参考:STOWASSER,巻頭のラテン語史概説,9.1.2.1.1.6,S. XXI)。

est (英:is) (動詞sum, esseの直説法・能動態・現在時制・3人称・単数の形)

Dominus 主 (主格)

Deus noster 私たちの神 (主格) (Deus:神,noster:私たちの)

【詩篇唱】

venite 来なさい (動詞venio, venireの命令法・能動態・現在時制・2人称・複数の形)

exsultemus 跳び上がろうではないか,喜ぼうではないか (動詞exsulto, exsultareの接続法・能動態・現在時制・1人称・複数の形)

Domino 主に

iubilemus 歓呼しようではないか (動詞iubilo, iubilareの接続法・能動態・現在時制・1人称・複数の形)

Deo 神に

salutari nostro 私たちの救いに (salutari:救いに,nostro:私たちの)

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