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たとえば、火のワゴンR

最近、このnoteを読んでるよと、いろんな人から言ってもらえて嘘だろ?と思いつつも悪い気はしない。いや嬉しい。だから一応恥を忍んで言っておきたい。
もし記事を最後まで読んでくれたならハートのマークを押して欲しい。「いいね」と思おうが、「べつによくはないね」であろうがそんなのは関係ない。押して欲しい。ハートマークを見たらとにかく押すんだ。考えてはいけない、脊髄反射で構わない。そうでなければ私は自分の記事が読まれた事にさえ気づかず、そうさ、こんなものは誰も読まないし今後も読まれはしないと思い込んで枕を濡らすんだ。後生だ、ハートを押してくれ。
「これを読んでいる人がいる」という事実のみに励まされて、私はいま約一ヶ月ぶりにこれを書いているのだから。

見苦しいほどの懇願。いやそもそも懇願は見苦しいものだ。
しかし思い返せば、こんなのは毎秒ペースでYouTuberやらTikTokerが締めの挨拶代わりにペラペラとやっているんだから、現在の世間ではこんな懇願は当たり前なのかも知れない。
承認欲求の存在はすでに世間では既知のものであり、仮にそれを無いものとして、斜に構えて強がっても逆にカワイイってなもんで、まるで馬鹿みたいだ。だからハートのマークは押すんだ。押してみてくれ。一回、お願いします。すみません。お手隙で。お手数をおかけします。


さてその現在の世間では、「平和」について書くことはまだ許されているだろうか?

さすがに誰もが気がついている事実として、この人間社会において、人間の置かれる環境や待遇は決して「平等」では無い。同じじゃないんだ。
手塚治虫の「火の鳥」のような世界観で捉えたならば、あ、そうか、生きとし生けるもの全ての魂は等価に循環しているのだ!と、思えるかも知れない。しかしそんなのは死ぬ2秒前に考えれば十分だ。

あらゆる人間関係において、何かを協力して行う場合に必要なのが「前提の共有」だ。いま私たちはどういう状況にいて、お互いはどういう立場で、どんな世界を目指して生きているのか?という「前提」だ。

例えば、私がワゴンRを運転していたら後ろからレクサスに軽く追突されたとする。運転者2人は車から降りて話し合う。そしてレクサスは私にこう言うのだ。
「生きとし生けるもの全ての魂は等価に循環している。だから、あなたは私。私はあなた。それでは、輪廻の果てでまた会いましょう。」

ちょ待て。である。

火の鳥だ。いや、火のレクサスだ。これは参る。

この状況は事故であり、言わば「平和」な状態では無い。まずは一旦協力してこの場を平常に戻してから、交渉なりなんなりをして決着をつけるべきであるが、その「協力」をする場合に必要なのが「前提の共有」である。

火のレクサスと私は「前提」を共有できていない。世界観が違うからだ。
ということは、このような世界観の違いがあり得るという事も「前提の前提」におくべきなのかもしれない。その上でさらに私もこの際、火のワゴンRになるべきなのか、どうなのか、と考えてみよう。

複雑化した世の中で、複雑なまま生きる。これは難しい事だろうか?
白黒つけられない事や、つけてはいけない事がある。矛盾や不条理も多い。世の中は論理的に組み上がっていないのかもしれない。
そんなグラデーションの中にさまよいながら、バランスをとって生きていくセンスに、私たちはもっと自覚的になるべきだ。

親切とユーモアは捨てずにおきたい。

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