Cage. #7【秋葉原将棋センター】

秋葉原将棋センター。
競馬新聞と赤鉛筆を持ってきてソファに座り、予想を始めるヌシ。

横開きのサッシ扉の開く音がして鵠沼が入ってくる。
新聞から目を離さずに声を上げるヌシ。

ヌシ「 おお! 亀か。急な呼び立てですまぬな」

鵠沼、深々と礼をする。

ヌシ「 しばし待て。すぐに済ませるゆえ…そうだ、久々に一局指さぬか?」

鵠沼「 はい」

鵠沼、袖奥の棚から将棋台と駒を運んで机に置き、駒を並べ始める。

ヌシ「 雨はどうだ?」

鵠沼「 今は降ってません。午後には晴れるという話です」

ヌシ「 そうか…難しいのう雨模様の中山は。しかも三歳牝馬となればなおのことよ」

鵠沼「 競馬ですか」

ヌシ「応よ。このまま晴れて芝が乾けば逃げ・先行が強い。この雨で馬場に少し湿り気が残れば差し馬や追い込み馬に勝機がある。しかし週末また降って重馬場を過ぎるようなら、やはり逃げ・先行に有利な展開となろうよ…亀、そなたはどう思う?」

鵠沼「 いえ、私はやりませんのでさっぱり。しかし、ぬしさまでも天気と馬は読めませんか」

ヌシ「 ふふっ当たり前ではないか。さればこそ面白い」

鵠沼「 わかるような気がします」

ヌシ「 うむ……よし、粗方決まったわ。 待たせたな、亀よ」

ヌシ、ソファを立ち、新聞を畳んで机に置き、鵠沼の向いに座る。

鵠沼「 もう、よろしいので?」

ヌシ「 あとは当日、この目で見てから判ずるとしよう。…さて、改めてこう相対すれば、やはり久方振りと言う他ないな」

鵠沼「 ご無沙汰して申し訳ありません」

ヌシ「 吐かせ。そなたにすれば刹那の間であろうがよ」

自陣の歩を五枚取って、盤上に振るヌシ。

鵠沼「 いえ、時間というものは全てのモノに対して等しく相対的です。私もこうしてぬしさまに会い、久しぶりだと感じました。ですから——」

淡々と話す鵠沼に向かって掌を挙げ、制するヌシ。

ヌシ「いい、いい、わかった。あとは盤上で聴こう。先行は、儂じゃ」

鵠沼「よろしくお願いします」

ヌシ「よろしくお願いします」

お互いに礼をしてヌシから指し始める。二、三手無言での応酬。

ヌシ「 相澤はどうであった?」

鵠沼「 強かった、です」

ヌシ「 識っておるわ。どう強かったかと訊いておる」

鵠沼「…そうですね何と言うか、まるで——」

ヌシ「ほう、 深い海の底、か」

鵠沼「…はい。あと少しで届きそうだったのです。しかし、それはもう叶わなくなってしまった」

ヌシ「 寂しいことよ」

鵠沼「 私はまた恩人を喪ってしまいました」

ヌシ「 恩人?」

鵠沼「私が人と深く関わりあいを持つ事は良くない。それは解っていました。しかし盤上であれば、言葉を交わさずとも相手と深く語らうことができる。そしてそれは、永い間私を覆っていた灰色の靄を払ってくれたのです」

ヌシ「相澤がそれを教えてくれた?」

鵠沼「はい。それなのに私は彼に恩返しするどころか死なせてしまった」

ヌシ「亀よ、それはそなたの所為ではない」

鵠沼「しかし——」

ヌシ「同じよ」

鵠沼「え?」

ヌシ「儂にとっても相澤は恩人。守れなんだというならば、儂も同罪じゃ」

鵠沼「ぬしさま…」

ヌシ「そろそろか。その話、詳しくは今から来る者たちにしてやってくれ。今日そなたを呼んだのはその為よ」

扉の開く音。
立花と橘香が入って来て、将棋を打つ二人を見つける。
橘香と鵠沼、目が合い、お互い会釈する。

立花「 いたいた! ぬしさま~連れて来たわよ~もう看板出てないからわかんなかったじゃない」

橘香「ちょっと咲ちゃん」

立花「 え?」

橘香、ヌシの方に近づこうとする立花を引き止めて小声で話す。

橘香 ここどこ?

立花「 えっとアキバ将棋道場だっけ?」

ヌシ「 秋葉原将棋センター」

立花「 そうそれ」

橘香、もう一度立花の腕を強く引いて人差し指を口に当てる。

橘香「 あの人が、その…ぬしさま?」

立花「 そうよ。見た目はああだけど頼りになるから」

橘香「 あなたを知ってるから見かけで人を判断はしないけど…でもちょっと怖そう」

立花「怖い? え? ウソ~カワイイ系じゃない?」

橘香「 かっ! カワイイ? アレが? …わからない。オカマ視点だとそうなるのか——」

立花「何してんのよ、お父さんのこと色々知りたいんでしょ?」

橘香「 でも本当にあの人が知ってるの?」

立花「 大丈夫よ。なんてったって将棋界の生き地獄って呼ばれてるぐらいだから」

橘香「それを言うなら生き字引でしょ?」

立花「 何だっていいわよホラ!」

立花に押されて、ヌシの方へ近づく橘香。
若干躊躇しながらヌシの背後から話しかける。

橘香「 あ、あのすいません突然お邪魔しまして。わたし万歳橋警察署刑事課の相澤といいます。お伺いしたい事があって…うわっ!?」

橘香、立花に引っ張られる。

立花「 キッカ、あんた刑事として来たワケじゃないでしょ?」

橘香「え?」

立花「ぬしさまは警察になんか何も教えてくんないわよ?」

橘香「う、うん」

もう一度二人の方へ向き直る橘香。

橘香「わたし、相澤橘香といいます。相澤一陽の娘です。将棋にお詳しいのであればご存知かも知れませんが、父が昨日亡くなりました。状況から見て自殺と思われます。わたし娘なのに、最近の…いえ今までずっと父のことあまり知らなくって。なんで自殺なんかしたのか全然解らないんです…」

前に進み出て鵠沼に頭を下げる橘香。

橘香「ぬしさま、お願いです! 父のことで何か知ってたら教えて下さい!」

鵠沼「え?」

立花「ちがーう!!」

立花、橘香に駆け寄ってヌシの方へ向き直らせる。

立花「 こっち! ぬしさまは!」

橘香「え?」

ヌシと橘香、目が合う。

ヌシ「 何じゃ、亀を儂と間違えておったのか?」

橘香「ええ?・・・あの、すっすいませんまさかこんな」

ヌシ「ちんちくりんだとは思わなかった——ってやかましいわ!」

橘香「ごめんなさいっ!! あれ?」

立花「まあまあしょうがないじゃない。だってカメちゃん貫禄あるし」

鵠沼「申し訳ない」

立花「なんで謝んのよ…ていうかなんで居んの?」

ヌシ「儂が呼んだ」

立花「え?」

ヌシ「そなたたちの問いに答えるには儂よりも適任と思うてな。相澤の最後の対局相手よ」

橘香「ということはあなたが鵠沼八段ですか?」

鵠沼「鵠沼宗次です。相澤さんの事は何と申し上げればよいか…とにかく残念です」

鵠沼、立ち上がり橘香に深々と頭を下げる。
橘香もつられて頭を下げる。

ヌシ「そなた、相澤とは二十年以上の付き合いになるかの?」

鵠沼「はい。そういえば初めて相澤さんとお会いしたのも此処でした。ぬしさまの紹介で一局お手合わせ戴きまして」

ヌシ「おお、そうじゃった。実はこやつに将棋を教えたのは儂でな。暇そうにしておったから練習台にと仕込んだのよ。儂がなるべく長く楽しめるよう、持久戦の戦法を基本にな。しかしだんだん守りが堅くなり儂では攻めきれぬ程になりおった。そこで戯れに相澤とやらせてみたのよ」

ヌシに催促された鵠沼、座って手を進めながら話す。

鵠沼「ぬしさま以外と指すのは初めてでしたが、相澤さんの自由な棋風に感銘を受けまして、私も棋士になりたいと思ったのです。それ以来、相澤さんのいる位置に少しでも近づこうと励んできました。そして先日の対局であと一歩のところまで迫る事ができたと思っていたのですが…」

橘香「父と対局されたとき、何か変わった点は感じませんでしたか?」

鵠沼「いえ。いつものように序盤の落ち着いた打ち筋から、変幻自在な中盤の展開、そして終盤、怒涛の寄せと正確無比な詰み筋——」

橘香「あの! 将棋ではなく、本人の言動とか様子でいつもと違うような事は?」

鵠沼「…将棋には指し手の全てが顕れます。その時の体調、精神状態…。それらに何か異変があれば、必ず打ち筋のどこかに影響し、相手はそれを見逃さないでしょう。しかしあの日の相澤さんの将棋は、いつもと同じく大らかで、一点の曇りもなかった。ですから——」

橘香「自殺する程の悩みを抱えてるようには見えなかったという事ですか?」

鵠沼「 はい。少なくとも対局が終わるまではそうでした。しかし…」

橘香「しかし?」

鵠沼「対局後、相澤さんは笑いながら、次に私と当たるのが怖くなってきたと言いました。それを聞いた私は敗れたはずなのに只々嬉しかった。相澤さんに認められている。追いかけ続けてきた背中にもう少しで手が届く。そして後ろからではなく正面から相対することができる日も夢ではない。そう思ったんです」

橘香「鵠沼さん…」

鵠沼「しかしその翌日、相澤さんは命を絶った。それを聞いた時の衝撃は、言葉では到底言い表すことができません。なぜ? その二文字だけが頭の中を回り続けました。もしかして私のような格下に差を詰められた事で、年齢的な衰えを意識したのではないか。そう考えると浮かれていた自分が許せなくて…」

橘香「……」

鵠沼の鬱気に当てられて滅入る橘香。

ヌシ「ぬあーーーーー!!」

突然頭を抱えて叫ぶヌシ。
驚く一同。

立花「なに!? どうしたの?」

ヌシ「身動きが取れん!」

立花「は?」

ヌシ「亀! さっきの7六歩、あれ…無しにしてもらえぬかの?」

立花「うわ…『待った』有り?」

鵠沼「…どうぞ」

鵠沼、手を戻す。

ヌシ「いや済まんの。しかしここからどうしたものか…」

ヌシ、考え込む。
橘香と鵠沼を見比べて溜息をつく立花。

立花「はー、何だか似たもの同士ねアンタたち」

橘香「え?」

立花「なんかムリヤリ自分のせいだと思い込んじゃうあたりが」

橘香「——!」

立花の言葉で気を取りなおし、鵠沼に尋ねる橘香。

橘香「鵠沼さん、念のためもう少し訊かせて下さい。一昨日の対局終了後、午後4時半過ぎから翌朝にかけて、鵠沼さんはどちらにいらっしゃいましたか?」

鵠沼「相澤さんとの感想戦を終えて5時頃に将棋会館を出ました。そのまま鈍々と2時間ほど歩き、上野の屋台で一杯呑んだあと、8時頃に湯島のアパートへ帰りました。それから風呂に入って寝床についたのが10時過ぎ、起きたのは朝の5時半です」

橘香「どなたかご家族は一緒にお住まいですか?」

鵠沼「いえ、独り者なもので」

橘香「そうですか…。では先日のトーナメント戦勝者の相澤九段の急死で、敗者の鵠沼八段が繰り上がり進出するという噂がありますが本当ですか?」

立花「ちょっとキッカ! それは——」

立花の制止を無視し、鵠沼の眼をじっと見つめる橘香。

鵠沼「…いえ、トーナメント戦の相手が何らかの理由で棄権したり、対局が不可能になった場合、対局相手の不戦勝となります。従って、私が敗者復活する、というようなことはありません」

数秒間、目線を交錯させる二人。
橘香、目線を先に切り頭を下げる。

橘香「鵠沼さん、色々と失礼な事を訊いて本当にすみませんでした」

立花「キッカ?」

橘香「父も最後にあなたのような棋士と対局できて本望だったと思います。今日はこれで失礼しますが、今度はゆっくり聴かせて下さい。鵠沼さんが知っている、私の知らない父の顔を」

鵠沼「いや、私は対局の時以外、お会いしたことがないものですからあまりこれといった話は——」

橘香「何でも構いません。これまで父と指した将棋の話とか」

鵠沼「そういうことなら、いつでも」

橘香「ありがとうございます! それじゃ」

立花「ちょっとキッカ、もういいの?」

橘香「うん。あたしこの事件もっと調べてみる。これはあたしにしか出来ないし、あたしがやらなくちゃいけないんだ! 原宿署で教えてもらった重要参考人リスト、実は鵠沼さんも入ってたんだけど、残りの二人をあたってみたいの」

立花「ぬしさまには訊かなくっていいの? 将棋界の地引網よ?」

橘香「えっと、なんか取り込んでるっぽいからまた来る。ぬしさま、お邪魔してごめんなさい。また来ますから…」

ヌシ、集中のあまり聞こえていない様子でブツブツ独り言を呟いている。
橘香、盤上を一目見てヌシの駒を一手動かす。

ヌシ「な、に!?」

橘香「それじゃ失礼します!」

立花「ちょっ! キッカ待って!」

橘香、駆け足で去る。
扉の開く音。

立花「んもう! ぬしさまゴメンまた来るから。あ、カメちゃんアンタ、気をつけてね。あとはあの子とアタシに任せて。くれぐれもヤケ起こさないように。わかった?」

立花、真面目な口調で鵠沼に話す。
淡く頷く鵠沼。
立花、橘香の跡を追って将棋センターを出る。

扉の閉まる音。

見送る鵠沼。
盤上に釘付けのヌシ。

ヌシ「これはなんとも妙手よ…」

鵠沼「ぬしさま、お話しされなくてよろしかったので?」

ヌシ「ん? ああ、また来ると言っておったでの。しかし…」

ヌシ、扉の方を振り返って目を細める。

ヌシ「あの急勝ちな性分は母譲りじゃな。なかなか兩親の良い処取りと云う訳にはいかぬか」

体を鵠沼の方に戻し、立ち上がるヌシ。

ヌシ「さて亀よ、そろそろここの店員が店を開けに来る頃合いじゃ。一時休戦として、蕎麦でも食いに参ろうぞ」

鵠沼「はい」

将棋盤を片付けはじめる鵠沼とヌシ。

転換

§

Cage. #8 【鳩森神社】へ続く

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