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憎めない理由ー私の中のおにろく像

泣いた赤鬼は別として、基本、鬼の類は苦手。なのに、なぜこのおにろくは好きなのか、ちょっと考えてみた。【以下ネタバレあり】

松居直 再話、赤羽末吉 画『だいくとおにろく』(福音館書店、1962年)

ざっとこんなお話だ。流れが急な川があり、橋をかけてもすぐに流されてしまう。困り果てた人々が名高い大工に依頼したところ、大工はすぐに引き受けてくれた。ところが、大工は心配になってきて、橋をかける場所で流れる水をじっと見ていると、川の中から鬼が現れた。

「おい、だいくどん、おまえは いったい なにを かんがえている」

大工が事情を説明すると、

「おまえが いくら じょうずな だいくどんでも、ここへ はしは かけられまい。けれども、おまえの めだま よこしたら、おれが おまえに かわって、その はし かけてやっても ええぞ」

と鬼が言う。大工は「おれは、どうでもよい」と曖昧な返事をして家に帰った。

翌日、大工が川に行ってみると、橋が半分かかっていた。そして翌々日には、立派な橋が完成していたのだった。大工があきれて見ていると、そこへ鬼が現れて「さあ、めだまぁ、よこせっ」と言う。大工が「まってくれ」、鬼が「まてねぇ」の押し問答の末、大工が逃げ出すと、鬼は後ろから大声でこう怒鳴った。

「そんなら、おれの なまえを あてれば ゆるして やっても ええぞ」

大工がどんどん山のほうに逃げていくと、遠くのほうから子守唄が聞こえてきた。

はやく おにろくぁ めだまぁ
もってこばぁ ええ なあーー

これによって大工は鬼の名前を知り、再び鬼と押し問答の末、最後に「おにろくっ!」と怒鳴ると鬼は消えてなくなったというお話。

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相談にのってくれる気がよさげな鬼は、実際は押し売りさながら現物を差し出して目玉をよこせと迫る悪徳商人だったのだろうか。 そもそも「どうでもよい」と曖昧な返事をしている大工も悪いのではないか。 にもかかわらず、名前を当てれば許してやってもいいと言う鬼はどこか間が抜けている。どうせ大工に当てられっこないと高を括っていたにしても、遊び心がある、いや、ありすぎるようにみえる。

大工が山で聞いた子守唄からわかるのは、鬼が家族を養っており、生活のために目玉を持ち帰る必要があったということだ。それでも自分の名前を当ててみよと持ちかけ、「がわたろう」とか「ごんごろう」などとわざとまちがえてみせる大工とのやりとりを楽しんでしまうあたり、詰めが甘いというべきか。そういえば、逃げる大工を追いかけることもしなかった。余裕で楽しんでいるうちに身を滅ぼしてしまった鬼の姿に悲哀すら感じてしまう。

ここで、私が好きな「おにろく」をまとめてみると …… 

・気のよいおっさん風
・並外れた創造力(橋をかける)
・家族を養う働き手
・溢れる遊び心
・詰めが甘い(間抜け)

といったところか。今回、そもそも鬼とは何なのかが気になり、以前読んだ本を取り出してみた。松居友『昔話とこころの自立』によれば「古代の日本で鬼は、魔であると同時に神」でもあり、鬼は「無意識の世界からの出現者」としてとらえることができるという。(18-19ページ) おにろくが神であるとするならば随分と人間的な神だが、魔物にしては間抜けすぎて憎めない。おそらくは私自身の無意識の中にもおにろく要素が眠っていて、それが顔を出したことで共鳴したのだと思われる。

昔話を深く読み解きたい方におすすめの本はこちらです🔽

河合隼雄『昔話の深層』(福音館書店、1977年)
河合隼雄『昔話と日本人の心』(岩波書店、1982年)
松居友『昔話とこころの自立』(宝島社、1994年)