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ピアノのだめ遍歴

はじまりはオモチャのミニピアノだった。鍵盤は10ほどしかないので弾けるのは「チューリップ」程度だが、指でたたくと音が出るのが3歳の自分には嬉しかった。

これよりは大きかったけど
所詮オモチャ

幼稚園に入ると、ヤマハ音楽教室が園に出張していた。オモチャより大きいオルガンが魅力で、初の稽古事を始めることになった。

小学1年の時、近所にピアノ教室があるとわかった。でも、2年間オルガンに慣れ親しんだ指はピアノの弾き方に馴染まず、毎回、楽譜に指の形の絵を描かれて注意された。小学2年で転居した先でも、家のオルガンで練習しながらピアノ教室に通った。小学3年になって、ようやくアップライトピアノを買ってもらった。子ども心に親に負担をかけたことがわかったが、嬉しさのほうが大きかった。鍵盤が増えたからには「エリーゼのために」や「乙女の祈り」を弾いてみたくて、課題のブルグミューラーよりも好きな曲を勝手に練習するようになっていった。

小学4年でまた引越して、小1の時と同じピアノ教室に戻った。ツェルニーの練習曲を嫌って基礎練をサボりまくる私に、先生はモーツァルトの課題を与え続けた。繰り返しが多くて練習曲みたいなモーツァルトは全然好きになれなかったが、おかげで多少は基礎を積むことができた。でも、所詮は付け焼き刃。いつまでたっても基礎的なテクニックが身につかず、気難しいクラシックよりも気楽な合唱曲の伴奏を好んで弾くようになった。

中学に入ると、定期試験の勉強を言い訳にして、ピアノの練習そのものをサボるようになった。

教室の先輩たちが次々と音高に入っていく中で、私は手が小さいことを理由に薦められなかったが、何よりもサボリ癖が原因であることは十分自覚していた。中3でようやく課題がモーツァルトからバッハに変わったが、私は好きな曲を自由に弾きたかったので、教室をやめることに未練はなかった。

その後30年余りを経て、まさか再びピアノレッスンに通うことになろうとは思いもしなかった。きっかけはTVドラマ「のだめカンタービレ」で竹中直人さん演じるシュトレーゼマンの台詞。

「音楽と真剣に向き合わなければ、心から音楽を楽しむことはできない」

特殊メイクの竹中さんはどう見ても笑えるのに、この一言が自分にグサリと突き刺さって離れなかった。

久々にして初めてのレッスン当日、ピアノ再開の理由を問われて返した言葉を私はもう忘れていたのだが、先生はしっかり覚えておられた。

「このままでは死ねない」🫢

そうだった。ピアノ再開は終活の第一歩だった。のだめ ほどの劇的な変化は望めないにせよ、人生を終える前に自分のダメ遍歴を返上する必要があったのだ。

その後、レッスンには10年近く通った。

最後の発表会後に
私の電子ピアノと

コロナ禍を機にレッスン継続を断念したため、「くるみ割り人形」の「花のワルツ」の連弾をやり遂げられなかったことが唯一心残りだが、そろそろダメな自分を許してもいい頃と思う。