2023/08/17(ホモズ)

ベルサーニの『ホモズ』を読み直してみる。要約と感想を簡単にまとめてみる。

みながアイデンティティの話をし、それは幻想なのだと批判する。だが、両者ともにアイデンティティという圏内で議論をしていることにちがいはない。ベルサーニはそこを突いて、活動家やアカデミシャンはアイデンティティの話ばかりをして、欲望の話をしない、と言う。多くの同性愛者の生物学的男性は男のCockを熱望している、ということはクィア理論家の本を読んでも一向に分からない、とか皮肉っていたりする。要するにベルサーニは、この卑近な事実、単にゲイはソレを求めているのだという事実に目を向けず、あくまでそれを迂回してセクシュアリティについて語るインテリ手つきを批判している、というわけだ。

このヤンキー的事実、このベタな単純さに耐えられず、インテリはセクシュアリティを語る言語をアイデンティティのそれに単一化し、(むしろ市井的にはマジョリティであるが、語られることが希少なのでないことにされている)ヤンキー的な同性愛欲望を迂回して見ないことにする。結局のところそれは性嫌悪であり、ゲイが男性のCockを求めるということを受け入れられないという意味で、同性愛嫌悪なのである。

これは性のある種の単純さに耐えられないという話でもある。性は語れないのではなくて、実際あまり語ることがない。友人とするおしゃべり程度のものだ。それに耐えかねて、欲望や快楽の話をアイデンティティの問題にすり替える。それはアイデンティティの、つまり「内面」の圏内からどうしようと逃れられない近代人の宿命なのかもしれないが、その擁護者も批判者も性についての「思想的考察」が絶えてしまうことを恐れて、迂回とすり替えをおこなう。性についてなにごとかを語らなければならない、というのは、まさにフーコーが近代に見いだしたひとつの罠であるにもかかわらず。

性を真面目化するというのは、性について絶え間なく語り続け(させ)るための要請であって、それは権力側の都合だ(フーコー『性の歴史』)。だから、性の単純さを、というか性の身も蓋もなさをあげつらうことは、簡単なようでいてむしろ難しい。性は複雑だが、人が思っているほど複雑でもない。というか、人が抱いているほどの幻想は実在しない。性は意外にあっけない。そのグラデーション、単純さと複雑さの塩梅のなかで性を考える必要がある。

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