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西川一三、と植村直己?

割引あり


西川一三と植村直己の違いは?、どういうものだったのだろう?と考えてみたくなった。

沢木耕太郎の『天路の旅人』を読んで。私は、西川一三の心情に思いを馳せる。
西川一三の旅について。帰国してからの生活のこと。
乞食同様の、あれだけの旅をした西川一三が、帰国後、結婚して盛岡に居住してから、再び旅へ出ることはなかったのだ。

西川一三は、山口県、1918年(大正七年)生まれ~2008年。農家の、三人兄弟の真ん中、次男。福岡県の修猷館中学卒業。
1936年(昭和11年)4月満州の大連へ。満鉄入社。1941年退社。1941年4月、7蒙古善隣協会の興亜義塾、入寮。三期生。

西川一三は、結婚して盛岡へ引っ越して(or結婚は盛岡でだったかな?)、そこに腰を据えて一生を終えた。
毎日ほとんど一年中仕事していて、仕事から帰宅する道中で必ず寄る店があって、そこで飲んでから帰ったそうで、その時そこで、西川一三は何を思っていただろう・・?
チベット仏教寺院で修行した人であれば、何も思ってはいなかったかもしれない。

盛岡で自営仕事を始めた初期には、また旅に出たいという気持ちがあったそうだが、奥さんに諫められた。
それで、結局一生を終えた。

若い頃に、中国側からチベットを目指して、あれだけの旅をした、旅人だった西川一三が、結局再び旅に出ることはなかった、そのことが、私にはどうも気にかかる。
どうしてなのだろう?と。
いったいに、西川一三は、そこのところの気持ちと、どの様に折り合いをつけたのだろう?
それだけ、奥さんに対しての気持ちが強かったということだろうか?
植村直己だって奥さんに対しての気持ちは強かったはずと思うが。

結局、個性の問題というしかないのだろうか?
たぶん、そうなのかもしれない。

西川一三のチベットへの旅は、戦時中の行為だったことを考慮する必要がある。
つまり、潜行探査、しかるに、敗戦だ。

戦後、帰国した西川一三はGHQからの呼び出しの前に、先ず外務省へ行った。そしたらけんもほろろの扱いを受けたのだ。西川一三の有する情報に当時の日本政府は見向きもしなかった。

西川一三は、日本に帰国してからの一年間、GHQからの聞き取りに従事した後に、三年間ほど、自分の旅の手記を書き著すことに費やした。
この手記を本にして出すことを念願していたが、それ程執着はしていなかった様で。

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