見出し画像

ジャックニコルソン

1937.4.2. USAニュージャージー州出身、アイルランド系アメリカ人。

【祖父母に育てられている。 母、フランシス・ニコルソンはアイルランド系のショーガールで、ジャック・ニコルソンは幼少時に母の両親に預けられた。祖父は、育児を放棄した娘を「歳の離れた姉」と孫に教え、自分の子として育てることを選んだ。 この祖父母の下、敬虔なカソリック教徒として育つ。 ジャック・ニコルソンが、年老いた両親が実は祖父母で歳の離れた姉が母だと知ったのは、俳優として成功してからのことだったが、その時、すでに祖父母も母も亡くなっていた。】

高卒後、俳優を志し故郷を出てハリウッドに移住、MGM社のアニメーション部門で働く。

ジャック・ニコルソンが、どういう訳で俳優を志ざしたか、詳しいことは判らない。さらには、狂気や恐怖を湛えた役柄を演じることに定評をえたのかも。
また、ジャック・ニコルソンの、その輝かしい俳優歴(アカデミー賞ノミネート合計12回など。詳しくは後記)の謎も。? つまり、ジャック・ニコルソンは、大学を出ていないしどこかのスクールとかで演技の勉強をしたわけでもない。
ジャック・ニコルソンの修業は、ロジャー・コーマン率いるAIP(アメリカン・インターナショナル・ピクチャーズ)の一員としてキャリア(役者としてだけでなく監督や製作など)をつんでいた、1958年(この年映画俳優デビュー)から1969年(イージーライダー)までの、約10年間だったと思われる。
1958年、映画初出演した『クライ・ベビー・キラー』が、「低予算映画の王」として知られたロジャー・コーマンの目に留まり、AIPの一員となり、ここでデニス・ホッパーと知り合う。 AIPには若手俳優が多数在籍していた。(『ロジャー・コーマン』として別記)
【当時、絶大な人気を誇っていたテレビ番組『ザ・モンキーズ』で脚本執筆を任されるなど、製作を専門にしていこうかと考えていた矢先、ロジャー・コーマンの映画に主演していたデニス・ホッパーから今度撮る映画に誘われた。本来、別の人がやる予定だったこの役(アル中弁護士ジョージ・ハンセン)で、アカデミー賞助演男優賞にノミネートされ、一躍注目されるところとなった。】

翌70年『ファイブ・イージー・ピーセス』、さらに、1973年『さらば冬のかもめ』、'74年『チャイナタウン』でも、アカデミー賞助演男優賞にノミネート、
1975年『カッコーの巣の上で』で遂にアカデミー賞主演男優賞、受賞。
1980年『シャイニング』は、アカデミー賞には絡まなかったものの、その演技は注目を集めるに充分だった。
『レッズ』(81。アカデミー賞助演男優賞ノミネート)、
『愛と追憶の日々』(83.アカデミー賞助演男優賞受賞)、『女と男の名誉』(85.アカデミー賞主演男優賞ノミネート)、『黄昏に燃えて』(87.アカデミー賞主演男優賞ノミネート)、『ア・フュー・グッドメン』(92.アカデミー賞助演男優賞ノミネート)、『恋愛小説家』(99.アカデミー賞主演男優賞受賞) 『アバウト・シュミット』(02.アカデミー主演男優賞ノミネート)
 アカデミー賞男優賞受賞三回!
その間、『ミズーリブレイク』(76)『郵便配達は二度ベルを鳴らす』(81)『心乱れて』(86)『イーストウィックの魔女たち』(87)『バットマン』(89)『マーズアタック』(96)など。
さらに、『ディパーテッド』(06)『最高の人生の見つけ方』(07)
【アカデミー賞ノミネート12回は、男優として最多で、1960年代から2000年代まで、各年代ごとにノミネート経験をもつ、三人の俳優の内の一人。(他はマイケル・ケインとポール・ニューマン) 。1994年、アメリカ映画協会から生涯功労賞を授与されたが、これは歴代受賞者最年少(57歳)。
ちなみに、三度のアカデミー賞受賞は、助演男優賞を三度受賞しているウォルター・ブレナンについで史上二人め。】 【若い頃から、俳優だけでなく脚本や監督も手懸ける総合的な映画作家を目指していて、これまでに数本の監督映画があるが、俳優としての名声に比べ、監督映画で成功した作品はみあたらない。】

とにかく。
すごい人だ。 いや、すごい役者だ。


この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?