一人称の波音 19

バー・フォールズのカウンターで、阿部は相変わらず難しそうな本を読んでいた。マスターは、なにやら焼き物のような料理を作っている。香りから推測するに、チキンを香草でゆっくりと炒めているのだろう。チキンの匂いに混じって、かすかなハーブの香りが店内を満たしていた。 阿部は、ビールを飲んでいた。車を走らせたあとからずっといるのだろうか。テーブルには3品以上の食器が置かれていた。小食で、頼んでも2品であるいつもの阿部らしくない。僕は阿部の隣に座り、ビールを頼んでそれをグラスにあけ、ひとくちで飲んだ。

 「アメリカに行くと、いろんな文化が混ざり合ってしまうらしい。文化が混ざるって、どんなだろうな。」阿部の目線はあいかわず本に落としたままだった。彼が本当に本の字を追っているのかわからないが、阿部はいつもこういう話しかたをする。同時にふたつのことが、できるのだ。僕にはとてもできない。

 「それでも俺は、俺の文化をどこか別の良く知らないものと混ぜたくはない。」阿部は本を閉じて、僕を見た。少し酔っているようだった。

 「それでもいつか、混ざらなきゃならないときだってくる。」僕はそう言って、再びビールを飲んだ。グラスに注ぐのが面倒だったので、ビンのまま一気に飲み干した。マスターはすぐに新しいビールを僕の前に置いた。今度は、よく焼けたチキンが盛り付けられたものも一緒だった。

 「酔っているのか?」しばらく返答がなかったので、阿部のほうを見た。阿部は、そんなことはない、といわんばかりに注意深く微笑み、パスタに少し手をつけてから、

 「お前を、待っていたんだ。そうでなけりゃ、なぜ俺がこんなに食べなきゃならないんだ?実際、これはお前の分も含めて頼んだんだ。」と、微笑みながら言った。

 僕もよく本を読む生徒だったが、阿部に関しては、それに輪をかけたように本を読んだ。サッカー部に所属していたから、部活の時間には本を読むのをあきらめ、ボールを追いまわしていたわけだが、それでも僕は彼が本を読んでいる姿しか思い出せない。成績も優れていたから、少しくらい授業に集中していなくても、先生は特に注意もしなかった。結局のところ、要領がよかったのだ。

 大学も、阿部はすんなりと希望したところへ入学を決めてしまった。

 「別に、特別なにかをしたい、というのではないんだけれどな。本さえ読めれば。」その言葉とは裏腹に、阿部は大学時代に理化学系のすぐれた賞を受賞することになる。それは、日本の農林政策にかんする研究だった。

 「みんなわかっていないんだ。賞をくれたやつらだって、実際のところ、わかっていないんじゃないか。何が大事かってことを。贅沢な食事や、車や、家なんて、そんなもの、ただの付属品なんだよ。俺たちはすべて、毎日必要なだけ働き、必要なだけ飯を食べ、必要なだけ寝ればいいんだ。1日3食。8時間も働けば十分だ。必要なものを数字で表せば、人生はいたってシンプルなんだ。」阿部の受賞会見でのこの発言は、当たり障りのないコメントに大幅加筆修正されて、彼の受賞は多少名のある雑誌に掲載されることになる。

 「パスを、交換するんだ。」阿部はピザの乗った皿を僕のほうに押しやってから、そう言った。

 「パスの受け手に、パスの返し方をしっかりと教えておかなきゃならない。そうでないと、いつまでもパスは帰ってこない。パスが帰ってこなかったら、あきらめてボールを買いに行かなきゃならない。だから、パスは交換しなきゃ駄目なんだ。」ピザは、ベーコンとチーズが乗ったもので、いささか冷えていたが、ビールにはちょうど良かった。

 「明日、東京に戻ることにするよ。今回もいろいろ、世話になったな。」しばらくしたあと、僕はそういって、マスターに少し多めに勘定を払った。マスターはいつもとおなじように、きりっと冷えたアイスティーを差し出し、僕はそれをひとくちで飲み干し、一礼をしてバーを出た。またしばらく、バー・フォールズに来ることも、阿部に会うこともなくなるだろう。そして、この町に来ることも。

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