一人称の波音 13

浜辺のすぐ脇にはちょっとした洞窟がある。以前訪れたときに見て以来、気になっていた。気になっていたといってもわざわざ中に入って調べるほどのことはしていないが、なんというか、洞窟、というものをいままでほとんど見たことが無かったし、ドラマや漫画に出てくるような、いかにも洞窟、という情景にぴったりだったせいもある。

 僕が洞窟に興味を持つ理由を、昔はうまく説明できなかった。それを説明しようとすると、いつも頭の中にもやがかかったような状態になり、もやの中を必死にかいくぐって事の真相を探ろうとするのだけれども、そこには、出口がなかったのだ。もやのなかに入ってうまく核心のようなものをつかんでも、出口がなければ、それを置き去りにして入り口へ戻ってくるしかない。

 僕が洞窟に興味がある理由は、しかし、実はそこにあったのだ。洞窟には入り口しかない。出口があったらトンネルになってしまうからだ。洞窟に入っていく者はみな、そこを通過点であるとは考えていない。洞窟の中にあるなにか-それが有形物であるにせよ、無無形物であるにせよ-を捜し求め、そして満足がいくまで探索を続けると、また入り口へ戻ってくることになる。始まりと終わりがはっきりと定まっており、それは同じである。Aから入ったら、Aから出るしかない。AがBになったりCになったりするような複雑な数式はそこには存在し得ないのだ。だから、人は洞窟に入るために、洞窟に入るのだ。トンネルとは違う。したがって、洞窟の中の空気や歴史はそこで終わる。そこにとどまり、じっと冬を過ごす。あるときはクマの親子が寒さから逃れるためにしばらく過ごすかもしれない。しかし彼らも暖かくなると洞窟の外へ出る。そこにとどまっているものは、永遠にとどまっているほか無いのだ。それは、時間の終着点とも言えるし、あるいは無限性をそこに見出すことも出来るかもしれない。洞窟の中に居る限り、時間は止まり、そして永遠に続く。そこに出口は見当たらない。そこには、有限の存在である我々の対極にあるものがあるような気がしてならない。だから僕は洞窟という存在に惹かれ、また反発しあうのだと思っている。

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