一人称の波音 6

翌朝、彼女の部屋で目を冷ますと、彼女はもう起きて、どこかへ出かけてしまったようだった。

 アメリカ。多様な人種を抱え、世界の超大国になろうとしているアメリカ。そこへいって、自分を試してみたい、という、阿部。

 やれやれ、なんだって、あいつはいつも僕の考える一歩先をゆくんだろう。

 冷蔵庫を見るとマーガリンとハム、それにレタスが少々あったので、簡単にいためてハム・トーストを作った。窓の外ではセミがもうすぐ終わっていく夏を引きとめようとするかのように精一杯鳴いている。毎年見る光景だ。しかし固体としてのセミはひと夏もしないうちに地上での短い生涯を終えてしまう。毎年見る同じ光景だが、その役割を演じている役者個々は異なっている。僕だって、なんといってももう22歳になったのだ。

 自分と他者との距離感がうまく掴めない僕にとって、ひとりの女性と長く付き合うのはそうたやすいことではない。だいたい、3ヶ月もするとお互いのバランスが崩れ始め、そんな、なんだかおもりをつけて生活しているような暮らしに嫌気が差して、どちらからともなく別れを切り出していく。だから、付き合って2年も続いているなんて、本当に奇跡といってもいいようなものだ。

 「あなたは、バランスの取り方が下手なのよ。」

 口論になると、いつもそういってそっぽを向かれるが、彼女も決してバランスのとり方がうまいとはいえなく、お互い不完全なままなんとかいままでやってきている。

 彼氏、と彼女、という言い方をすれば明らかに3人称であるが、ふたりでいるとき、そこには3人称の入る余地が無い。僕が1人称で、彼女が2人称だ。互いに向き合って話をしなくてはならない。おそらく、それがどこかで僕のバランスを崩すんだろう。そういう意味では、今はお互い並行に向きながら話をしているようなものだ。しかしそれで互いの平和が保たれているのだから、良いのだろう。

 彼女が帰ってくるまで、あてもなく川沿いを散歩した。夏休み最後の週末らしく、河川敷には親子でボール・ゲームをする姿が多かった。こうして見ていると、人の人生というのは、同じことを2度繰り返すのだな、と思えるからおもしろい。つまり、始めは自分が主体の段階だ。両親とボール遊びをする。なかなかうまくいかない。手元を離れたボールは、自分が思ったところには飛んでいかない。しかし何度か繰り返すうちに、コツみたいなものをつかみ、自分が思ったところにボールを投げられるようになる。そしていつしか、ボール以外のものであっても、自分が思ったところにおちつくものだと考える。しかし、それは違う。年齢が上がるにつれ、自分が思ったとおりにはいかないことが多いことに気づき始める。ボールは、いつも決まった方向へは飛んでいかない。だんだんと友人知人が増え、次第に親には寄り付かなくなり、そして親元を離れる。そして、適当な女性を見つけ、自分が親になると、今度は援助者の役割として、主体者に自分がされたことを繰り返す。子供には、思ったところにボールを投げるやりかただけを教える。将来、それが必ずしも真ではないという辛いことを、口にすることは無い。自分で気づくしかないのだ。歴史や場所、文化こそ違えど、みな同じような暮らしを送っているのだろう。人生を2度繰り返すことこそ、幸せなのだ。そういう意味では、僕らは模倣していく生き物だといえる。

 夕飯の材料を買い、彼女の部屋でたまねぎをみじん切りにしていると、電話が鳴った。彼女からだった。

 「今日は用事が出来て、帰れそうも無いの。明日の昼には戻るから、わるいけれど夕飯は自分で済ませてくれるかしら。」電話機の奥からは僕が聞いたことも無いような乱雑な音楽が流れていた。僕はあきらめて、みじん切りになりかかった玉ねぎをスープの中にほうりいれ、簡単なポトフにして食べた。プロ野球はレースも中盤を過ぎ、ニュース・キャスターは今年もビック・チームがやや独走態勢に入ってきたことを告げていた。どうやら話題は、甲子園をにぎわせた選手たちの動向へ移っていきそうな気配だ。

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