一人称の波音 14

地方のひっそりとした祭り、という雰囲気で、浜辺には100人には満たないであろう人が思い思いに海を見つめていた。

 浜辺には等間隔に灯されている松明が、おおよそ20くらいもあり、その明かりで僕らはなんとか海と陸を見分けることが出来た。何か屋台が出ているわけでもなく、その場所を日常と違う風景にさせているのは、通常よりは多いであろう人の数と、そして松明だった。横を走る道路を走る車は、ここで祭りが行われていることさえ気づかずに通り過ぎてしまうだろう。しかしそこには、その浜辺に足を踏み入れたものだけが感じ取れる、なにかしらの雰囲気があった。神聖…といえばいいすぎかもしれない。しかし確実に、日常とはかけ離れた様子を、僕はすぐに感じることが出来た。

 「みんな、お祈りをするの。」彼女は、トンネルを歩いていたときとはまったく違った、穏やかな表情をしている。

 「お祈り?何に向かって?」僕はそう尋ねてみたが、彼女は僕の顔を見て微笑んだだけで、何も言うことなく視線を海へ戻し、ほどなくして目を閉じた。仕方が無いので、僕も目を閉じて、何かを考えるともなしに思いつくイメージに身を漂わせることにした。

 イメージの中で、僕は再びトンネルの中にいた。不吉な影を漂わせる、あのトンネル。今度は、僕ひとりだった。トンネルの向こうで、彼女が僕を呼んでいるのがかすかに聞こえるような気がする。トンネルの中を走る車は、無い。しかしそれにもかかわらず、彼女の声をさえぎっている何かを僕は感じることが出来る。そして、幾分暗い。光も、またさえぎられている。だいたい、なんで僕はここにいるんだ?僕は、彼女(僕の住む町の、彼女だ)の家で、彼女の居ない彼女の家でポトフを作り、そして寝ていたのだ。まだ何も書かれていない、真っ白な一日。ゆっくりと時間をかけて、ポトフにあうチーズ・リゾットを作ろうと考えていた。さらっとしたポトフには、少し濃い目の味がいい。バターをやや多めに入れて、そして、ベーコンを添える。夕方には彼女も帰ってくるだろう。ワインを冷やしておいて、そして、ゆっくりと時間をかけて食べるのだ。窓から入ってくる冷たい風に自分をなじませながら、夏の終わりを楽しむ。そんな予定だった。しかし、阿部の電話ですべては異なった方向にすすむことになる。僕は阿部と新潟の海に行き、そして彼女(浜辺の彼女だ)に会う。阿部は先に家に帰り、残された僕は奇妙な共同生活を送る。少し懐かしく、そして、暖かい。波を感じることの出来る、彼女と、おかみさん。しかしこの場所に僕という主体性は存在しない。僕は押し流され、そして引いていく、僕はそう、主体性の無い波だ。僕には何も聞こえず、何も見えない。何かがさえぎっているのだ。それを僕はいま、はっきりと感じ取ることが出来た。それが何なのかは、まだわかっていない。しかし、それは、たしかに、僕の中に、僕の中の深い深い場所に、存在している。それが僕をさえぎっているのだ。僕は、それを取り除きたいと思う。それを、僕の中から、放り出してしまいたいと思う。そうしないことには、このトンネルからは抜け出せそうに無い。僕は、耳を済ませる。じっと、遠くの彼女の声に集中する。はじめ彼女の声は右の耳から聞こえ、しばらくすると左の耳から聞こえるようになる。それは、大きくなり、そして小さくなる。しかし、僕が集中して、耳を済ませている限り、それが途切れることは無い。僕の中の、僕をさえぎる何かがだんだん消えてゆくのがわかる。僕は、目を閉じるのをやめ、彼女をじっと見つめる。彼女が僕に向かって、微笑んでいるのがわかる。僕は、しっかりと、彼女の顔に神経を集中する。僕はもうトンネルの中にいない。20本の松明の並ぶ、ひっそりとした浜辺で、僕たちは向かい合っている。僕は神経を研ぎ澄まし、彼女の目、鼻、口、すべてを記憶する。どうしてだかわからないけれど、そうする以外に方法が無かったのだ。向かい合っている間、彼女の意識が僕の中に入ってくる。

 「あなたのなかに流れている波を、あなたは自分でコントロールできるようになったの。」僕の意識の中で、彼女の意識が語りかける。それは僕であり、彼女でもある。こうして向かい合っているあいだ、僕らは口を動かすことなく意思が伝達できるような気がした。

 「上、見て。」彼女は口を動かさずに、僕の意識の中に直接語りかけてきた。それで僕らは上を向いた。

 空は一面の星空だった。僕らは神経を研ぎ澄ませて、星空を見た。僕には、ここにいる人たち全員が星空を見上げていることがわかった。僕の意識は全員の意識であり、全員の意識は僕の意識だった。そこには、僕が居て、そして同時に全員が居た。

どれくらいそうしていただろう。気づくと僕と彼女は手をつないでいた。それに気づくまでにかなり長い時間がかかり、気づいたときには少しだけ驚いたが、再び彼女の微笑んでいる顔を見て、なんというか、なんでもないことのように思えた。

 帰り道、僕らは何も話さなかった。いや、もしかすると話したのかもしれない。たわいも無いこと。明日の天気だとか、昼になにをしただとか、そういったことだ。しかしそれよりも大事なことは、僕と彼女が真剣に向き合った、ということだった。意識を、共有しあった、ということだった。それによって僕は僕の中で僕をさえぎる何かを僕の外側に追いやることが出来たし、彼女も多分そうだったのだろう。気づいたら、トンネルは僕らの後方、かなりうしろのほうにあった。

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