一人称の波音 18

彼女は、自宅でパスタを茹でているところだった。彼女はシンプルなブルー・ジーンズにTシャツといった格好で、クラシックを聞きながら、自分のリズムを刻んでいた。

 「けっこう、早かったのね。阿部君が言っていた時間より30分くらい早い。まだ、夕食、できていないのに。」冷蔵庫を開けると、シーザー・ドレッシングと、トマトとレタスのサラダがきれいに皿に盛り付けられ、ラップをされた状態で保存してあった。僕は彼女に断ってビールを一本空け、既製品のソーセージと一緒に流し込んだ。

 「君も行ったこと、あったっけ?僕らが高校生だったとき、毎年のように出かけた場所。ほら、なんていったっけか。誰かの別荘があったところだよ。」ビールは僕ののどをさわやかに駆け抜け、それが久しぶりの彼女との会話を円滑にさせた。彼女は「行ってないわよ。だってそれ、泊まりだったでしょう?親に怒られるわ。」と、パスタをかき回せる手を緩めずに言った。ほんの一瞬だけ、僕のほうを向いて、それで目が合った。そういえば、ビールを飲むのは久しぶりだった。このまえ飲んだのは、たしか、バー・フォールズだ。マスターは今日もソースを作っているのだろうか。

 「ねぇ、お皿を出してくれる?」僕が食器を並べ、彼女が料理を盛った。窓を開けると、半袖ではいられないくらいつめたい風が入ってくる。夏は、もう終わりなのだ。互いに2杯ずつワインを飲んだあと、僕らはどちらが言い出すでもなく、外へ出て、散歩をした。彼女は軽めのカーディガンを羽織り、僕はコーデュロイのシャツを着た。

 「夏が、終わっちゃうね。」もう、何度も経験する季節だが、やはり、今年もさびしさが漂う。季節という波には僕らはどうあがいても打ち勝つことはできないのだ。それがいやなら、渡り鳥になって海を越えていくしかない。夜だったせいもあるだろう。蝉の声は、僕の耳にはもう届いてこなかった。

 「また、来るさ。1年後に、新しい夏が。」かすかに、暖かい風が吹いた。ナツハオワリマシタ。マタノゴライジョウヲオマチシテオリマス。風は無機質な声で僕にひとこと告げてどこかへ去っていき、またもとの冷たい風に戻った。

 「来年はどうするの?あなたもここを出て、どこかへ行ってしまうの?」僕はそれに答える代わりに、彼女の右手を、そっと握った。彼女の手は少しひんやりとしていたが、びっくりするほどではなかった。僕はそれほど手が大きくないが、それでも僕の左手の中に彼女の右手はすっぽりおさまるくらいのサイズだった。

 しばらく歩いていると、少し体も暖まってきたので、僕たちはどちらからいうともなく、長袖を脱いだ。幸い僕の持っているセカンド・バックに余裕があったので、彼女のものといっしょにシャツをしまった。そしてその後僕らは何もしゃべらず、家路に着いた。

 彼女は高校の同級生だった。高校時代にはあまり多く友人を作らなかったせいもあって(もちろん大学でそれが劇的に変わったわけではない。むしろ、その傾向は年齢を重ねるごとに進化し続けている)、昼食時には校庭の端にある大きな樫の木の下で食べることを好んだ。冬はいささか寒すぎてさすがにそこで食事をすることはなかったが、それでも少し厚着をして、しばしば樫の木を訪れた。木の下で僕は、本を読んだ。本、といっても、小説ばかりではない。図書館へ行っては興味のあるタイトルの本を借り、そこで静かに読む。それが僕にとっての、正しい休み時間の過ごし方だったのだ。そして、同じようなことを考える同級生がいた。それが、彼女だ。もっとも、彼女が読んでいたのはもっぱら小説か、哲学の本で、だんだん親しくなるうちにそんな話もするようになったが、彼女の読む本と僕の読む本はほとんど重なっておらず、僕らはなかなか共通の話題を探すことに苦労した。冬が来ると、僕らが会って話をする場所は図書館に移った。僕らは互いの読んだ本について話をし、そして外に出て缶コーヒーを飲んだ。自分が詰め込んだ知識を、相手にうまく伝えることはとても難しいことだったが、しかし、そういうふうにして知識を発散させることで、うまいぐあいにバランスが取れていたんじゃないかと思う。

 とにかくそんなふうにして、我々は互いを理解していった。ときおり、待ち合わせて市内の図書館に行くこともあった。図書館の中ではもちろん私語ができないので、我々は図書館の外に出て、歩きながらとりとめもなく話をした。ふとした瞬間に、歩きながら互いの手と手が触れると、顔を赤くし、照れ笑いをした。しかしそれきりで、そのときに二人の仲が進展するようなことはなかった。僕らは若く、どちらも切り出すことができないでいた、ともいえる。

 彼女と再会したのは、大学2年の夏に僕が町へ戻ってきたときだった。図書館で本を読んでいると、

 「相変わらずね。」 と、彼女が声をかけてきたのが、始まりだった。我々は、昔話をし、会っていなかった期間にお互いに起こったことを話し、そして、読んだ本の話をした。僕も彼女も、20歳になっていた。喫茶店を出て、しばらく歩いていると、彼女の右手が僕の左手に触れた。そのとき僕は、迷うことなく彼女の手を握り締めた。なぜだかわからないが、そうしなければならないような気がしたのだ。彼女は小さな声で

 「ありがとう。」 と言った。それでお互いいろんなことを確認し合えた、と僕は考えていたし、おそらく彼女もそう感じていたのではないかと思う。そしてそれから2年の間、僕たちは関係を続けている。

 部屋に戻り、彼女にカーディガンを手渡そうとすると、彼女は小さな声で

 「ごめんなさい。」 と、つぶやいた。一瞬、僕にはなんのことだか見当がつかなかった。はじめは、カーディガンを持っていてくれてありがとう、という意味のごめんなさいなのだろうかと考えたが、声色からしてそれは違うことがわかった。僕が、返すべき言葉を捜していると、彼女は、小さいがしかししっかりとした声で、僕に告げた。

 「わたし、わたしには、名前がないの。もちろん、本当にないわけではないの。今は一人で暮らしているけど、歩いて10分くらいのところに両親だって住んでいるし、特に親との間で問題なんてないわ。わたしが、名前がない、っていうのはね、もっと、表面的なことなの。わたしはずっと、あだなとかつけられたこともないし、先生からは苗字で呼ばれてきたの。あなたは、もちろんわたしのことを名前で呼んでくれるけれど、でもときおり、忘れてしまうの。あれ、わたしは誰だっけ?って。わたしの名前は、どこにいったんだろう、って。だからこの数日、あなたがいなかったこの数日、わたしは自分の名前を探し続けていたの。押入れや天井裏、バスタブの中とかに、わたしの名前が落ちているんじゃないか、って思って、探していたの。でも、やっぱりなかった。あなたが帰ってきて、あなたがわたしの名前を呼んでくれるまで、わたしは自分の名前を失っていたの。それでね、できれば、わたしは、自分の名前を自分の中にしまっておきたい。いつでも取り出せるように、わたしは、わたしでありたい。他の誰でもなく、私自身であり続けたいの。だから、わたしはこの町から出ない。だって、わたしはこの町で生まれたんだもの。わたしは、自分の名前といっしょに、この町に居続けたい。」彼女は、泣いていた。僕は彼女を抱き寄せ、そして静かにキスをした。しかし、そのことには何の意味もなかった。

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