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深夜に吹いた「隙魔風」

臆病なくせに、病的なほど勝ち気だからか、恥ずかしながら精神的に追い詰められてしまいました。酒と薬の力を借りて眠りにつくも、3時間もすれば目が醒め、それ以降眠れない状態に陥ることが稀にあります。
深夜に「あ、また来たか」と、暗闇に向かって情けないため息をつきながら、静かに沈黙の時間をやり過ごします。
誰にも相談できない、しないと決めて塞ぎ込む性分なため、朝になると平静を装いながら家族と接し、子どもたちを駅まで送り、業務をこなしながら不安定な状態をやり過ごすのですが、正直なことを言うと、どうしようもなく不安が重く、「辛い」と言えた方が楽じゃないかと自己嫌悪に陥ります。
この場所を抜け出すのに時間をどれくらい要するのか、これまで何度か経験しているのに未だにはっきりしません。
その間にも約束した人とは合わないといけないし、その状態を察せられまいとするためつい必要以上に言葉を発してしまい、不要な攻撃をしてしまうこともあります。
コミュニケーションにおいて、言葉の伝え方が極端に下手になる自分を自覚するものですから、余計に自己嫌悪に陥ってしまい、まったく悪循環極まりないです。

実はこれを書いている今まさに陥ってしまった状態で、子どもたちの寝息を横にしながら、静かに心中を書き留めています。
書くという行為は、気持ちの中のストレスを外に出す作業ですし、客観的に見つめることで落ち着きを得られるという作用があるようです。
中年男であるのに、恥ずかしい限りです。

これまでを振り返り続けて、「精算」を繰り返すことが鍵

振り返ってみると、誰にもある「幼少期」に、少々いびつな家庭環境で育ったことが今もってなお精算しきれていないのかもわからないと、ふと一瞬思うことがあります。その責任を誰かに問うことや、被害妄想に取り憑かれているなどのようなものではなく、僕という人間が持つ精神の根源のごく一部が、未だにそこに根付いている、認めがたい感覚を受けるのです。

父親の暴力的な身勝手さに不自然さを感じながら、隣町に住んでいた「生みの親」のもとへ、何度も行き来させられたこと。
その場所には、弟や妹、そして姉が住んでいたので「兄弟」としての絆を育みたかったのだろうと思います。
昭和の初期の頃を生きてきた父親の生きる、そして残すための「必死」があったのだろうと思います。
ただ、父親が不在の時を狙って受けた、「生みの親」からの精神的虐待。
そして、不自然極まりないことですが、父親と共に家を出るとき、「行ってきます」しか選ぶ言葉がなく、僕にとって間違いなく最愛の母と言える「育ての親」の隠しきれなかった表情を見てしまった時の、幼いながらも胸の奥に感じた強い罪悪感。
幼かった当時の僕にはどうしようもありませんでした。
父親にもいろいろな事情や思惑があったこと、その全てを今では理解していますし、父親を許しているので全ては完結しています。ただあの時、小さな胸で確かに感じた屈辱に対する悔しさや、罪悪感が記憶から消えてなくならない以上、どこかに卑屈さが残っているのだろうと思っています。

誰にも言わなければ誰にも気づかれずに済むことではあるのですが、書き留めておきたいと思うようになり、今こうして「精算」を繰り返すことで記憶から救われようとしているのだと思います。
誰にもこんな瞬間はあるのかもわかりません。
僕は僕なりの言葉で書き留めて、いつかまた振り返ることを想定して、文章にしてみました。
いつか私が死んだ後、息子たちがここにたどり着くことがあればそれもまた面白いものです。

相反する「矛盾」は、生きる原動力となる

「どう生きていくか」を選ぶためには、過去の遺産を建設的に精算する必要があるように思えます。
自分の「過去」に受動的に足かせをはめられることは、「未来」の自分を放棄することと同意のため、「今」を諦めていることでもあります。

「建設」と「精算」、「臆病」と「勝ち気」、相反する両者を自分の中で抱き込み、そして手なづけながら、昨日までの自分を超えることに執念を持って生きていくことを「幸せ」と定義すればいいんだと、深夜の暗闇の中でひとつの確かな答えを見つけることが出来ました。

どうやら、書き留めるという行為は自分を救う具体的な行動のようです。

オトコマエなことを書いてしまった(笑)

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