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生きること、死ぬこと。

今日も気持ちは、嫌になるほどマイナス思考。別にマイナス思考が、すべて悪いとは思わないけれど、やはり、あまり気持ちのいいものではない。

それは地面を眺めながら、歩いているようなものだ。たとえお札を見つけたとしても、単純に喜べるわけじゃない。ポッケに入れれば悪事になる。急ぎの用があったとしても交番まで行かなきゃならない。

それよりも、空を見上げていたほうが、はるかにいいとつくづく思う。地面はそこで終ってしまうけど、空は宇宙まで果てしなく続く。そういうものを見上げていたほうが、はるかに人生を想うことが出来る。もしかしたら望むべきものは、手に届く場所には存在しないのかもしれない。

なんて、何を書いているんだか…。

昔から読んでいたけれど、最近また、哲学の本をよく読むようになった。人生とか、そういうものを、あらためて考えたくなったのだ。

哲学と言っても、私が読むのは難しい専門用語ばかりが占めてるような本じゃない。だいたいこんな私の頭じゃ到底理解することは出来ない。著者である彼女の場合、少々きついことばかり言ってのける独特の文章だけれども私は池田晶子氏の本が好きだ。彼女の言葉は、ストレートにずしんと心に響いてくる。

生きること、死ぬこと、それらを考えるのは非常に楽しい。いや、楽しいと書くと語弊があるかもしれない。けれども、そういうものを考えることは、人生において意味があると思う。いや、「意味がある」と書くとそれ自体も、語弊があるのかもしれない。「意味がある」それも恐らくはあまり意味がない…などと書くと、哲学は言葉という、人が何かを伝える手段を使っている限り、どうしても果てしなくややこしいものになる。だから人はあれこれと考えるのかもしれない。

これは私の独断と偏見だけど、彼女のそれら(生きること、死ぬこと)は、どちらも「同じこと」または「わからないこと」に行き着いているような気がする。つまりは、「わからないからこそ人は考える」と、私はとても単純に思っている。

本の中の「人間の死亡率は100%である」という彼女の言葉に、今更ながらに私は驚いてしまう。癌による生存率は何パーセントとか、この手術によって生存率は何パーセントとか、そういったことよりも以前に、すべての人間はいつか死ぬ。その死亡率は100%だ。

なんだかこんなことを書くと、生きる希望も何もなくなりそうだ。でも、人は日々の忙しさに、生きていることを忘れてしまう。死ぬことを忘れてしまう。人は必ず死ぬと言うことを、心のどこかでわかっていれば、意識していれば、人はこの瞬間を大切に思える。今を精一杯、生きることを意識できる。いわばこれは、逆説的な意味においても、とても大切な事実だと思う。

彼女は自殺について、こう書いている文章がある。「死ねば楽になる。なるほど、そう見えるかもしれない。でも、ひょっとしたら、死ぬということは、とくに自ら死ぬということは、生きていることよりも苦しいことであったとしたらどうする?」

この文章の前後にも、それに行き当たるまでのその彼女の思いが、いろいろと書かれているので、この言葉だけで判断するのはズレが生じる。

ただ、私が思うに彼女の伝えたい言葉は、「どうせ死ぬのだから生きればいいのだ」ということになるのだと思う。実にそっけない言葉ではあるけれど、生きることに慰めの言葉は要らない。それは大切な言葉だと思う。

「死ねば楽になる」そう思って自分で死ぬのは間違っている。これだけは断言できると思う。こんな当たり前に思えることも、その選択に悩むときが人にはある。だからそう思い続けないといけないのだろう。

自分自身もなくなるのだから、死んだ自分が楽になると感じ得ない。いや、それよりも、死ねば長く苦しい闇が、実は待ち構えているのかもしれない。こんなふうにいろいろ書いても、死んだ人は何も伝えない。それを知る手段は人にはない。人が死を恐れるのは、本当はその長く苦しい闇を、心のどこかで知っていて、行きたがらないせいなのかもしれない。もちろんそれはわからないこと。でも、わからないからこそ、それは、絶対ないとは言えない。

・・・やれやれ。
何を書いてるんだ、この私は。

こういう話を何をどう書いたとしても、結局のところ”わからない”に行き当たってしまう。でも、あえて生きる意味を考えることは、意味があるのだと思う。いや、「意味がある」と書くとそれは、語弊があるのかもしれない。「意味がある」それも恐らくはあまり意味が・・・

いや、もうやめよう。

今はただ、私は空を見上げたいだけだ。
生きること、死ぬこと、それらをただ
ぼんやりと、忘れないようにと思いながらも。

最後まで読んで下さってありがとうございます。大切なあなたの時間を使って共有できたこのひとときを、心から感謝いたします。 青木詠一