眠れぬ夜と雨の日には。
やさしい雨の日は、悲しいというわけでもないのに、心がしゅんと肩を落したようで、いつまでもひとりでいたいと思う。
忙しすぎるこの日常が、とても無意味なものに思えてきて何もしたくない感じ。でも、なぜかそれが心地いいものに思えてくる。
”眠れない夜と雨の日には、忘れかけてた愛がよみがえる”
古い歌のフレーズだ。
そんな力が、雨には確かにあるのだと思う。自分の心と向き合える時間は、たぶん、眠れぬ夜と雨の日ぐらいだ。そんな雨に誘われてか、私の心のタイムスリップは、こんな苦い想い出を再び蘇らせてしまっていた。
みなさんは、昔、学校でこんなことをしただろうか?私が中学1年の頃だったか、学校でこんなことをさせられた思い出がある。
ある授業で先生から、1枚のメモ用紙がひとりひとりに配られた。そのメモ用紙には、クラス全員の誰かの名前が、それぞれにひとりだけ書かれてあって、配られた人がその人について思ったことを、それぞれに無記名で書くというものだった。
これは他人が自分のことをどのように見ているかということを、客観的に知るためのテストだったのだろうか?(よくわからないけど。)それを書き終えるとすべて集められ、そして、それぞれ本人に配られる。その内容をどきどきしながら、書かれた本人が見るわけだ。
ある者は”さすがオレさまっ!”とうれしさの歓喜の声を上げ、ある者は”そんな!うっそだろー!”とこの世の終わりみたいな顔をしていたりとそれぞれが複雑な心境の中にいた。
私の場合は・・・断片的にしか覚えていないけど・・・
確かこんな内容が書かれてあったと思う。
”青木君は、いつもあまりしゃべらないので、私はよく知りません。もっと明るければいいと思います。”
女の子が書いた、とても短くてかわいい丸文字だった。はっきりいって、私はかなりショックを受けた。まるで、出したラブレターの最悪な返事をもらったような気分だった。
女の子は、この私に”もっと明るくなりなさい”と叱っているようなものだった。確かに私は、別に明るいほうではないにしても、暗いってほどのものじゃないと自分では思っていた。挨拶だっていつもしたし、友達だってそれなりにいたし…
でも、他人の目は、こんなにも厳しいものだと13才頃の私ははじめて悟ったのだった。よく考えたら、私が書いた誰かの印象も、似たようなものだった。”あまりよくわからないけど…” そんな書き出しだったと思う。
そうなんだ。自分が思うほど、他人は本当の自分のことを見てはいない。そして同じように、私も本当の誰かのことを、ちゃんと見てはいないのだろう。
自分の失敗や傷つけたことで、他人にどう思われただろうか?と夜の闇に消えてしまいそうなほど、人はその度に思い悩むけれど、他人からすれば、それはとても小さなもので、明日には誰ももう覚えていないことなのかもしれない。
そう思うと、ちょっと救われたような気分になる。確かに本当の自分を知ってもらいたいと思うけど、知られたくないことだって、人にはそれぞれにたくさんある。
自分だって本当の自分を、果たして本当にわかっているのだろうか?とそう心に問いかけたとしても、やはり、何一つ自信はないんだと、自信を持って言えるから不思議だ。
よく考えれば、それは実に当たり前のことだろう。だって人の心というものは、手にとって見えるというものじゃないし、見えなくてわからないからこそ、人は恋をするのだろうし、思い悩み苦しみながら、この人生を謳歌してゆくのだろうし…
それが人生の面白みというものだろう。
雨の日に、静かに窓の外を見つめながらも、心はとてもおしゃべりになる。こんなにも大事な心の時間を、私はいつしか置き忘れていた。忙しすぎるこの日常の中に…
眠れない夜と、雨の日には、忘れかけたこの自分を、心はそっと想い出そうとしている。
最後まで読んで下さってありがとうございます。大切なあなたの時間を使って共有できたこのひとときを、心から感謝いたします。 青木詠一