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何も言うな、何もするな。

これは随分とひどい出来事だけど、昔のことなのでご心配なく。

レジでお客さんが、パートさんに怒鳴っていた。ふたり組の中年男性だ。みるからにガラの悪そうなお客さんだった。

「なめとんのかお前は!このボケがぁ!」

その後ろで、レジ待ちで並んでいたお客さんは、何も言わずにそそくさと逃げて行く。賢明な判断だろう。パートのおばさんは、成す術もなく、ただ、岩のように固まっていた。どうすればいいのか、というよりも、何もせずに逃げ出したい気持ちでいっぱいだったのだろう。

どうやらレジでトラブルが起きたようだ。詳しくは書けないけれど、その対応は複雑なものだった。私はたまたま運悪く(と言ってはいけないか。)その前を通りかかってしまった。レジのパートさんが、目で私に助けを求めていた。でも、私にはその対処の仕方はわからない。レジの責任者の課長(年配の女性)は、いたがあたふたとするばかりで、何もことが進んでいない。

”はやく店長を呼んだほうがいい”私は目で、そう言ったが、レジの課長は”呼んでいるけどなかなか来ないのよぉ!”とそんな感じで今にも泣き出しそうだった。

気づけばレジで男性のお客さんは、あたりかまわず怒鳴り散らしていた。気づけば誰も何もしないままでいた。

「はやく責任者を呼んだほうがいい。あれじゃ、まわりに迷惑だ」

通りすがりの男性のお客さんが、気遣ってそんなことを言ってくれた。というより、何ぐずぐずしてるんだ、あんたら?あんなお客を野放しにして、なにやってんだ?というのが、本当の気持ちだったのだろう。

「すみません、今、店長を呼んでいるところなのです」と私は小声でその忠告してくれた人に話す。

レジの課長は店長を探すとか言って、どこかへ行ってしまう。”おいおい、あなたがココにいて対処しなきゃ!逃げてどうするんだ?”それよりも、いつのまにか、キレたお客の相手を誰もしていない状態だった。野放しのままで、まるで野性の猿のように、どうにも手のつけられない状況に・・・。

「いつまで待たせるんじゃー!ボケどもが!」

まぁ、それは確かにおっしゃる通りだった。たまたま、商品補充のために、その場所を足早に歩いていた私が、ポツンといるだけだったのだ。

最悪だ・・・でも、仕方ない・・・。

キャシャーンがやらねば誰がやるっ!って中年の人しかわからないようなギャグを言ってる場合じゃない。この私が行くしかなかった。

でも、何も状況も対処の仕方もわからない。そんな私が行っても、何がどうなるというものでもない。「どうしてくれるんだ?」と聞かれたとしても「えーとぉ?」としか私には言えない。「わからんやつが、来るなっ!このボケが!」と怒鳴られるのがオチだ。

それでも私は久しぶりのこの緊張感に、胸はワクワクしていた。不謹慎ではあるけれど、”久しぶりの大きなクレームだ!”なんてそのとき思ってた。まるで悪者をやっつける、ヒーローのような気分だった。

私は言った。「ご迷惑をお掛けして申し訳ございません。只今、店長を呼んでおりますので、少々、お待ち下さいませ」

男は言った。
「土下座しろや!」

私は立ったまま言った。
「申し訳ございません・・・」

男は更に言った。「お前は日本語がわからんのか?アホかお前は!土下座しろや、おぅ?」

今なら立派な脅迫罪だが、そのとき不思議と恐くなかった。不思議な正義感で、私の気持ちはみなぎっていた。昔の私なら、恐くて土下座なんかもして、そして、いいなりになって・・・ただ、震えていただけだろう。

私は心に言い聞かせた。”ただ、お詫びしろ、それ以外、今は何も言うな、何もするな”それを、心に何度も繰返していた。何も分からない今の私の、最善策は、ただ、お詫びして店長が来るまでの時間、このお客を、見守るだけだった。

「土下座で詫びをいれろ!」と怒鳴り続ける男。「申し訳ございません」と土下座もしないで、同じことを言い続ける私。何も言うな・・・何もするな・・・さらに悪くなるだけだ・・・何も言うな・・・何もするな・・・。

それにしても、本来、直接関係のない私が、どうしてこんなことに巻きこまれるのか?私以外にも、男性社員はいるくせに、みんなどこか行ってしまってる。(というか、逃げたのか?)

それにしても、なんて酒くさいんだ。男は缶チューハイを開け、ドラマの中の、酒に酔った人のようにフラフラとしながら、上目使いで私をにらむ。

男は言った。「ちぃ!土下座しないなら、そこに立っておれ!」・・・なんとなく、私は勝ったような気分だった。

ようやく店長がやって来た。(遅すぎる!いなくていい時は居るくせに!)少し緊張気味なその表情は、きっと、その事情を聞いたからなのだろう。(それともためらっていたのか???)

男は店長に言った。
「お客様、この度は大変失礼いたしました」

「おい、お前!ココでオレが叫んでもいいのか?」

変なところで冷静な男だった。
店長は慌てて、事務室まで案内していた。

残された私は、ただ、ひとり、なんだったんだろう?と変に疑問は沸いたけど”今は何も考えまい・・”と、また、同じことを思うばかりだった。

その男性客と店長が、レジ前の人ごみの中、消えてゆくのを、私はずっと見送っていた。男は私に何か言ったが、私には聞こえてなかった。たぶん、仁義ドラマのような汚い捨てゼリフだったのだろう。思いのままにならなかった私への・・・それでも、不思議と何も恐くなかった。

・・・・・・・
そのあと、レジのパートさんに聞いたのだけど、結局は男性の落ち度だったらしい。(クレジットカードの限度額オーバーだった?とか。)

店側の責任、というわけではなかったのだ。そう思うと、腹がたって仕方なかった。なんだったんだ?あんな思いをした私は?・・・
でも、まぁ、いい。

私の進歩が、ここには確かにあったのだ。

土下座とか、怒鳴り声とか
私には何も恐くはなかったのだから。

最後まで読んで下さってありがとうございます。大切なあなたの時間を使って共有できたこのひとときを、心から感謝いたします。 青木詠一