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流れた命と忘れてはいけないもの

「奥様はいらっしゃいますか?」

そのとき私は、”あぁ、しまった!”と受話器を片手に心の中でつぶやいていた。実はその女性からの電話は、これでもう、二度目だったのだ。今日が公休日の私は、その電話がかかるまで、読みかけの本を心ゆくまで堪能していた。

その電話の彼女は、うちの奥さんの友達だった。1度目に電話があったときは、うちの奥さんはちょっとした用事で朝から出かけていた。そして、今回の二度目の電話は、たまたま奥さんはお昼の買物に行っていたのだった。つまり、1度目の電話の後で奥さんが家に戻っていたにもかかわらず、私は奥さんにその人から電話があったことを伝えるのをすっかり忘れていたのだった。

「あのう、今度は買物に出かけています」

そう正直に、私はその人に伝えた。ものすごい罪悪感に、私はどうしていいかわからなくなった。それは、その彼女の電話の声が、消え入りそうなほど切なく聞こえたからだった。普通、1度目の電話のときに、私がちゃんと奥さんに伝えていれば、奥さんから電話をする事が出来たはずだったんだ。

そんな私を彼女はまったく許してくれるかのように「ごめんなさい、何度もお電話をしてしまって」と言った。そして、彼女は、とても静かに電話を切ったのだった。

こんなとき、悪いのは100パーセント私のほうなのに、素直な心で謝られてしまうと、心がまるでドライアイスで凍らされたかのような、そんな痛みを感じてしまう。

あの彼女に、いったい何があったのだろうか?そんなふうに私はなぜか、とても不安な気持ちになった。その疑問は、奥さんが帰ってから、わずか数分後にわかることとなった。

「彼女ね・・・そのう、つまり・・・最近、流産してしまったの」

奥さんは、何か他人の秘密をしゃべる時のような、そんな言いにくさを含んだまま、それでも私に教えてくれたのだった。

あの時の彼女の声が、私の中で蘇る。”ごめんなさい”という彼女の声が、まるで私に言った言葉ではなくて、消えてしまった小さな命に対して言ったように思えて、思わず私は切なくなってしまった。

「すぐに、電話したほうがいいね」
私は奥さんに言った。

「うん、そうね。たぶん、彼女ね、今、無くしたものを探しているのだと思うわ」そんなふうに話す奥さん。その言葉を私は何か不思議な気持ちで、しんみりと聞いていた。

・・・・・・
その会話を聞いちゃいけないような、そんな気持ちなのに、私は本を読むふりをしながら、心は奥さんの電話の声に集中していた。

どうやら、あの彼女は泣いているようだ。誰もいない部屋で、ひとりでいるのはつらくて、あのことを忘れたくても忘れられなくて、死ぬほど苦しいと、奥さんに切々と訴えているようだった。

そんな時だった。奥さんは彼女に、まるで小さな子供を叱るかのように、きっぱりとこう言い切ったのだった。

きっとね、忘れちゃダメなのよ。いつまでも覚えておくべきことなの。忘れようと思うから、きっと、つらいの。どんなに小さな命であったとしても、あなたにとってかけがえのない大切なことには変りはないの。あの子がきっと、あなたに忘れて欲しくないと願っているのよ。だから、それを忘れてはいけないの。いつまでも覚えておくのよ」

そういう奥さんの声が少しだけ震えていた。私は正直、その言葉にビックリした。本当につらいことは、”忘れる”と言うことが必要じゃないのだろうか?と私は今まで思っていた。

しかし、奥さんはそれを”忘れてはいけない”と言っている。奥さんは別に同じ経験があるわけでもなく、その人の本当の苦しみを、たぶんそのまま理解している訳じゃなかった。

だから、その言葉が、その彼女にとって本当に適切な言葉であるかどうかは私にはわからない。でも、”つらいこと”を忘れることが、果して本当に正しいことなのかさえも、私はうまく説明することが出来ない。そんな自分に私は気がついたのだった。

つらくてつらくて、忘れたいのにいつまでも忘れられないことが、人にはどうしてもある。そんな時は、もしかしたら、心が”忘れてはいけない”と必死に抵抗しているのかもしれない。だから、人は、無理に忘れようとして、死ぬほど苦しい思いをするのかもしれない。

そんなとき、逆に”忘れてはいけない”と誰かに言われたとき、一生懸命に抵抗することをやめたその心は、背中にしょった見えない荷物をずしんと地面に置いたかのように、ふっと楽になるような、そんな気がした。

「ねぇ、忘れなければいいのよ…」

奥さんは、その言葉をやわらかな声で繰り返した。電話の向こうでの彼女の様子はわからないけど、その奥さんのやさしい口調は、あの時みたいに”ごめんなさい”と謝っているどこまでも純粋な彼女がそこにいるような気がした。

やがて、奥さんは静かに受話器を下ろすと”ふぅ”と小さなため息ひとつついて私に言った。「あぁ、ごめんなさいね、今、お昼作るからね」そんなふうに小さな笑顔を作る彼女。私がつい、盗み聞きしていたことは、まるで気づいていないようだ。またまた、小さな罪悪感が私に生まれる。

私の知らない奥さんの人生の中には、どれだけの”忘れてはいけない”ものがあるのだろう?ふと、そんなことを考えていた。

でも、私はたぶん聞かないし、これからも聞くことはないだろう。”忘れてはいけないこと”は、きっと誰のものでもない、その人だけのものなんだ。

泣いていたあの彼女も
いつしかその窓を大きく開けて
空を見上げる日が
きっと来るのだろう。

そして、消えてしまった小さな命を
空の彼方に見守ることだろう。

その胸に忘れることなく
いつまでも、いつまでも。

最後まで読んで下さってありがとうございます。大切なあなたの時間を使って共有できたこのひとときを、心から感謝いたします。 青木詠一