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怒りながら死ぬ人はいない。

ふいに思ったことがある。「怒りながら死んでゆく人はいるのだろうか」ということ。

なぜ、こんなことを突然に思ったのか、自分でも不思議に思う。今まで私の人生の中で、本やテレビや映画やニュースで、そういうシーンを見た覚えがないから、たぶん、そんな人はこの世にはまず、いないんだろうなぁ、なんて思った。

本やテレビや映画やニュースでは、その最後のときは誰もが微笑んでいるか悲しんでいるか、泣いているか、または穏やかでいるか、だ。

誤解を恐れずに言えば、たぶん、どんなに極悪非道の人でも、罪を犯した人でも平気で誰かを傷つける人も、無視する人も、その本当の最後の時には、優しくて穏やかな表情を見せるのだと思う。

今は許せないにしても、どんなに相手が憎くても人である限り、いつか死ぬ。もちろん自分も同じこと。それは明日かもしれないし50年後かもしれない。

だから夜がまだ明けなくて、どうしても相手が許せないのなら、悪魔に魂を売るような覚悟で、相手が死ぬときを想像してみる。

あくまで自然死、または病死。
想像でも殺してはいけない、という暗黙のルールは忘れない。

それでも相手は、あの時みたいに、怒っているのだろうか?それとも、無視しているのだろうか?

私は思うのだけれど、この世で一番恐ろしい生き物は間違いなく人間だ。人間が一番恐ろしい。それでも人はみな、どんな人だって本当はみな、やさしい生き物だ。根源的なところで人は、どんな人だってやさしいんだ。

人を傷つけたり、憎んだり・・・どれもそれは、その人自身が原因じゃなくて、いろんな周りの見えないところで、冷たい風のような小さな痛みが、それこそ、小さく小さく積み重なって、そして、それが大きくなってどうしていいのかわからないままに、誰かのことを傷つけたりするのだと思う。

だから本当の原因は、誰かいろんな人たちが、その人に作ったその”小さな傷”の積み重ねであり、その本質的な部分では、その人自身そのものが、決して原因なんかじゃないんだと思う。

あぁ、どうしてもうまくこの気持ちを言語化できない。

例えばこれを、自分の子供を殺された親が、もし、読んだとしたなら、私の考えは許せないはずだ。悪いのは殺したその人であり、それはゆるぎない真実だ。

その想いは、正しいと思う。

死について想う時、どうしても父のことが思い出される。私の父が死んでから長い年月が流れた。私が父に最後に会ったのは、病室でだった。危篤で電車を乗り継いできたけど、そのときはなんとか持ちこたえた。私はまた、離れた土地へ帰ろうとしていた。

病室で別れるときに、私は「それじゃ、行くから」と言って、なぜか知らないうちに自分から父の手を握っていた。父の手を握るなんて、何年ぶりのことだったのだろう?もしかしたら、心はもう、これが最後とわかっていたのかもしれない。

手を握った父の手は、とてもちっぽけなあたたかさで、とても哀しいものだった。ただ、思いがけなかったのは、私が手を握ったとき、父が突然に子供みたいに、ぽろぽろと涙をこぼし始めた、ということだった。父も自分の最後をわかっていたのかもしれない。

今でも私は、あのときの父を忘れることができない。

若い頃は警察官で、晩年は少年刑務所に定年まで勤めていた父。いろんな犯罪を犯した少年たちと真剣に向き合っていた父が、あんなに厳しかったあの父が、こんな弱さを持っていたなんて・・・。

それでも人は死ぬときには、初めて本当の自分を見せるのかもしれない。私は心からそう思った。

人はみな誰もが愚かで、そして弱くて
本当の心はとてもやさしい。

怒りながら死ぬ人なんていない。
今は、いろんなことで素直になれないだけだ。

ただ、それだけなんだ。

最後まで読んで下さってありがとうございます。大切なあなたの時間を使って共有できたこのひとときを、心から感謝いたします。 青木詠一