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失いそうな心を取り戻す方法。

人の心は、案外、簡単にどうにでもなるものだなぁと、この頃の私は思う。人の、といっても、それは私自身のことだけど。

最近、とても穏やかな気持ちでいる。不思議と何にも気にもせずに、空を眺めているような感じ。忙しそうにしているいつもの自分が、どこか間違ってると漠然と思うようになってからは、自分の時間の流れでこの道を歩くようにしている。

とはいっても、どうしても時間に追われてしまう。いつもそれが現実だ。気付けば私の人生の、二度と戻らぬ大切な時間が知らぬうちに終わっている。もっと踏みしめるように、私は歩いていたいというのに、心は痛むことばかりで鏡の中の私はいつも、苦しいような表情をしている。

どうしたらいいのだろう?そんなことを考えていた。そんなとき、ふと、昔、思い浮かべていたある方法を思い出した。それは、家電店で働いていた頃の私のひとつの心を落ち着かせる方法。

そうか、いつしかすっかり私は忘れてしまってた。あの頃、ひどいクレームにあうたびに、心に強く念じていたと言うのに。別にそれは特別なことではなくて画期的な方法でもなくて、誰もがたぶん、無意識のままにしていることで、ただ、ちゃんと言葉にしていないだけのこと。

なんだかもったいぶってしまった。
答えは簡単。

たとえば仕事や日々の生活の中で、あまりにも忙しすぎて、自分を見失っているとき、または、むっとした気持ちになっているとき、そんなとき、私は自分の子供のことを思い浮かべるようにしている。すると暴走しかけた気持ちに、ゆるやかにブレーキがかかってゆく。

たとえば私が誰かに対して、正直、怒鳴りたいような気持ちになっているとする。たぶん、その表情は悪魔のように、ひどく濁ったものだろう。そのときの状況で、私がぶつけたい気持ちのままに、その怒りをあらわしてしまえば私の気持ちは一時、収まるかもしれない。自分を正当化するために簡単に嘘を言ってしまえば、自分の立場やプライドは、一時は守られるかもしれない。そして悪魔の私が耳元で、こんなふうにささやくかもしれない。「ほら、やっちまいなよ」と。

そんなとき、私は自分の子供の顔を思い浮かべる。もしも、私の子供が今、ココにいて、こんな私を見ていたとしたら、どんな風に思うんだろうかと。つまりは、今の自分から少し離れて自分を客観的に思ってみるということ。

すると見えなかった間違いが、私の中で見えてくる。あの子供の笑顔が私の間違った思いを正してくれる。「お父さん、それは違うよ」って。すると不思議と我慢することが出来る。いや、我慢じゃないな、弱い自分を認めることが出来る。

あぁ、そうか、こんなふうになったのは、私のココがいけなかったんだろうと。すべての私の心を傷つける出来事は、どんなことでも相手が100%間違っているなんてことはありえない。どこか自分が間違っている。というか自分の間違いがほとんどを占めているのかもしれない。その間違いは、怒りや恨みが生まれてしまうと、どうしても都合よく解釈する。そして見失ってしまう。

それをちゃんと見せてくれるのは、私の場合、あの子供の無邪気な笑顔だ。どんな大人でも、子供の前で、誰かを叱り飛ばすことは出来ない。それが唯一、出来るのは、その子供を守るためか、もしくは家族を守るためだけだ。それでも子供の目の前で、怒りをあらわにする大人がいるとしたならば、それはもう、自分の子供を愛せていないのかもしれない。

そんな姿は、子供に見せるものじゃない。愛するものを忘れてしまうなんて、なんて哀しいことなんだろう。生きることはつらいことの、連続にしか過ぎないけれど、ちゃんと”心”を忘れなければ、穏やかに生きていられる、と私は信じている。今はただ、忙しすぎて、誰もが本当の自分じゃなくなってるんだ。

心を忘れそうになって、本当の自分がどっかいってしまって、今、まさに誰かの言葉に傷つきそうになって、そしてその誰かを思いっきり傷つけたくなったとき・・・そんなときは、同じように大切な誰かを思い浮かべて欲しいと私は思う。

それは、両親だったり、妻だったり、夫だったり、子供だったり、好きなタレントだったり愛する人だったり、そして片思いの人だったり、(あるいは飼い犬だったり、猫でも構わない)そんな自分を助けてくれる、自分にとっての大切な人はこんなにもたくさんいるんだということに、気付いて欲しいと私は思うんだ。

その人がもしも、今、目の前にいて、こんな私を見ていたとしたら、どんなふうに思うんだろうか?そんなふうに考えられたら、別の正しい解決の糸口が、見つかるんじゃないだろうか?と私は思う。

それはとても単純で、きれいごとばかり並べたような何か笑ってしまうようなことかもしれないけれど、でも、意外に難しくて、そして、とても簡単なことだ。

人の心は、考え方ひとつで、正しい方向を示してくれる。人はひとりで生きてゆけないように、その正しさも自分ひとりで決めてきたものではなくて、実はいつも、誰かの助けがあってのことだ。

人は結局、誰かに助けられなきゃ生きてはゆけない。本当の自分を思い出すのもきっと、自分ひとりじゃ出来やしない。誰かの笑顔や優しさが、いつも必要なんだ。そう思えたとき・・・この人生の生きてる意味がほんの少し分るような気がする。結局人は、自分のためではなく、人のために生きているのだと。

その人のためが、必ず、自分のためになっている。そのことに本当に信じられたとき、人生はきっと輝きだすのだと思う。別に私の考えを押し付ける気持ちはまったくないけれど、そういう想いもあるのだなと、思ってくれればいいと思う。

自分を見失いそうなとき。私は子供の顔を思い出す。今ココに、私の子供がいたら、何て思うだろうか?と私は考える。

時には空をぼんやりと眺める。空はいつも、同じ空で、時には雨になったり風が吹いたりと、その表情は変わるけれど、それでもあの空の透きとおった青さを私達は知っているから、晴れた朝を待つことが出来る。

だから空の美しさを、私達は見失うことはない。
そんなふうに私達も、生きてゆけたらと思う。

私にとって、空の青さは
子供たちの笑顔とよく似ている。

最後まで読んで下さってありがとうございます。大切なあなたの時間を使って共有できたこのひとときを、心から感謝いたします。 青木詠一