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「根暗」という闇と光と。

人生と言うものは、哀しみで出来ていると私は思う。それでも人は、いつもそれが悪いことのように必死に避けるし、哀しみだけを背中に隠し、楽しいことだけを、いつも両手に抱えようとしている。

私が学生だった頃「根暗」という言葉が流行った。

ただ、ひとりきりでいるだけで「あいつは根暗だ」と指をさされた。私はその対象だった。事実、私は誰かといるよりも、ひとりでいることのほうが多かったし、それをいつも好んでいた。

でも、あの頃は、それは許されないことだった。常にいじめの対象になるし、常にのけ者扱いにされた。どうして「ひとり」がいけないのか?なぜ、いつも、楽しそうにしてなきゃいけないのか?

あの頃私は、いつもそう思っていた。

毎日が楽しいなんてあり得ない。誰もが自分に嘘をついているのがわかる。今はどうかわからないけれど、あの頃はどこか異常だった。いつもおとなしい人間は、騒ぎを好む人間たちに常に迫害されていた。

言葉は過ぎるかもしれない。
でも、学生時代の未完成なその心は、いつも傷ついていた。

だからなのか、ひとりで哀しそうな人を見ると、私は心の中で応援したくなる。別にそれは”元気を出せ”とか、”がんばれ”とか、決してそんなことではなくて、それできっといいんだよ。ひとりで泣いたって構わないんだよ、と、そんなふうに応援したくなるのだ。

哀しみは悪じゃない。明るくふるまうことが常に正しいわけでもない。私は自分の言葉の中で、常にそのことを伝えたいのかもしれない。哀しみは哀しみとして。喜びは喜びとして。それが人のあるべき姿だ。

闇がなければ光は存在しない。こんな当たり前のことを誰もがみんな知っている。ならば私は光のための、闇であっていいとさえ思う。闇は静かだ。その無の中にこそ、無限のあらゆる可能性を感じる。暗闇はどこまでも、心を研ぎ澄ましてくれる。

最初は何も見えなかったものが、少しづつ見え始めてくる。それは本当に見るべきものの、大切さなのかもしれない。

私はありふれた自然の中の緑の葉っぱが大好きだ。花が大好きだ。そして同じくらいに、その根っこも大好きだ。植物の根はその花を咲かすために、緑の葉をいくつも咲かせ、その栄養を重力に逆らって送っている。

根は暗い場所にある。それはきっとあるべき場所だ。花は美しい。緑の葉は若々しい。根は土で汚れ暗く見えなくても、それら美しいものたちにとっては、かけがえのない存在なのだ。

暗いということは、光が見えるということ。
それを決して忘れないように、私は今を生きていたい。

私は今、誇りに思う。
「根暗」という闇と光を。

最後まで読んで下さってありがとうございます。大切なあなたの時間を使って共有できたこのひとときを、心から感謝いたします。 青木詠一