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萎えた心の直し方。

心が急に、萎えてしまうことがある。
あれはなぜなんだろう?

夕方のこと、相手から私の依頼した仕事に対して、ほんの軽く注意を受けた。実になんてことのない注意だ。普段なら「あぁ、わかったよ」で済むことを、なぜか気分が不安定になり、急に心が萎えてしまったのだ。

なんとなく、そのとき私は、相手に莫大な迷惑をかけてしまったような気持ちになってしまった。別にそんなことはないのに、まるで心がエラーを起こしたかのようだった。

そんなとき困ったことに、私はもうひとつの症状が現れることがある。呼吸がうまくできなくなるのだ。そのとき、たまたま上司にある報告をしなければならなかった。これもなんてことない報告だった。ただ、伝えて終わるだけのものだ。それなのに、しゃべろうとすると、うまく呼吸が出来なくなる。うまく話せなくなる。あれ?息ってどうするんだっけ?今は吐くんだっけ?吸うんだっけ?とわからなくなる。

私にとって、これは今に限ったことではない。随分、昔からこうなってしまう。べつに頻繁に起こるわけではないし、普段の生活に支障があるわけでもない。もしやちょっとした心の病気なのかもしれない。けれども自分では、そうは思っていない。まぁ、これは酔っ払った人が「俺は酔っていない!」と大きな声で騒ぎ立てるような人と同じかもしれないけど。

単純に人にはそういうときがあるのだと思う。不意に心が萎えてしまう。なんとなく沈んだ気分になってしまう。たぶんそれは”鬱”とは違う。それは人に備わった安全装置みたいなものだ。たぶん私は知らないうちに、頑張りすぎたのだと思う。頑張りすぎた心が「これはまずい」と心に急ブレーキをかけたのだろう。

それが”萎える”と言うことなのだと思っている。

この安全装置が働くうちは、まだいいのだ。これがうまく作動しなくなったとき、本当に心が壊れてしまうのかもしれない。

子供の頃から私たちは「いつも明るく元気でいなさい」と教えられる。そして、そのために「頑張りなさい、努力しなさい」とそんなふうに何度も言われる。そのたび僕らは元気よく「はーい!」と手をあげて笑顔で答える。

私はいつも「それは違うんじゃないか?」と心で思っていた。実に小学生のころだからだ。ある意味、とても変な子供だった。どうして明るくなくちゃいけないんだろう?黙ったままでいることが、どうしていけないんだろう?そんなに頑張らなくちゃダメなのか?そんなことをずっと考えていた。

あの頃、私はいつも、黙っているような子供だった。何を考えているのかわからないような子供。そんなとき、私は大抵、空想の中にいた。想像の世界はとても楽しいものだった。その中で私は大空を飛び、宇宙を飛び、輝く星たちで物語を作る。それが私にとっての”明るさ”だったのだ。

けれども他の人からすれば、元気のない子供に映ったみたいだ。だから私は先生によく言われていた。「もっと、元気でいなさい」と。そんなとき、心の中で、私はいつも思っていた。私には私の世界があると。

心が萎えるときは、たぶん、頑張りすぎた私の心が、寝息を立てて休んでいるのだと思う。だから突然、呼吸がよくわからなくなる。うまく頭も働かなくなる。たぶん、パソコンのスリープ状態に似ているのだろう。

そんなときは、私は素直に心に休んで欲しいと思う。無理して明るく元気なんて必要ないんだ。

呼吸が整わなくてうまく話せなくなった。
それがどうした。
気持ちが沈んで前向きになれない。
それがどうした。

何も気にすることはない。いつか、自分の小さな子供が、居間で寝てしまったときのように、心に毛布を、そっと掛けてあげればいい。そうして自分もその隣で、ゆっくりと寝てしまえばいい。

時が過ぎて目覚めたとき、自分に毛布が掛けられてあって、そして子供が明るく笑っていたなら、それだけで人生は素晴らしいんだ。

最後まで読んで下さってありがとうございます。大切なあなたの時間を使って共有できたこのひとときを、心から感謝いたします。 青木詠一