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与えて、与えられて。

夕方、本屋から帰ってきたときのこと。

うちの奥さんがカッターシャツにアイロンがけをしていた。アイロンがけが作り出した独特のあたたかな空気の匂いと窓に映るきれいな夕暮れ。台所からただよう夕食のおいしそうな匂いとそのぬくもり。

「あ、お帰り」

私を見るまでもなく、当たり前のように彼女がアイロンをかけながら私にそう言った。

彼女が作り出すあたたかなものたち。

ただ、それだけの本当にそれだけのことだったのだけど、たとえ今日、どうしようもない出来事によって、自分が死んでしまったとしても、何も悔いは残らないだろうなと思った。

幸せって本当に何でもないところで、私の心をやさしく包んでくれる。こう思えるやわらかな心が、まだ私にあることを、心からうれしく思う。

この頃、なぜか眠れなかった。

パソコンのモニターをじっと見つめながら、いろいろと頭の中を思いがぐるぐると回っていた。私は何をしているのだろう?いや、何をしてきたんだろう、なんて。

”何を考えているのか!おい!私よ!しっかりしろよ!”

自分に激怒したところで、何も答えは返ってこない。

彼女を見ていて、時々私はとても申し訳ない気持ちになる。私には十分なお金もないし、たいしたこともできない。それで彼女には、いろいろと苦労をかけてきた。今の仕事さえ、いつまで続けられるのだろかと漠然とした不安もある。それでも彼女は、こんな私にこう言ってくれたことがある。

「あなたが何も持っていないとしても、あなたはちゃんとたくさんのものを、私に与えてくれてるわ」

まだ、結婚したばかりの頃だから、彼女はもう、覚えていないかもしれない。でも、私はこの言葉にどれだけ救われたことだろう。

彼女からもらったたくさんの形のない大切なものたち。それらで私のこの心は、やさしく満たされている。この限られた人生の中で、本当に大切なことは、きっと求めることじゃなくて、与えること。

与えることで与えられているということを、彼女はたぶん気付いていない。私が与えているとすれば、きっと、彼女が与えてくれるからなんだ。

そんな彼女に、私は「ありがとう」の一言がうまく言えないでいる。たとえ、そう言ったとしても、きっと彼女は笑いながら、「なに?」って私に聞くだろうから。

彼女の手慣れたアイロンで、
すうっと、シャツがきれいになる。

彼女はうれしそうに鼻歌を歌う。

それはまるで、心のように
与えて、そして、与えられて。

最後まで読んで下さってありがとうございます。大切なあなたの時間を使って共有できたこのひとときを、心から感謝いたします。 青木詠一