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願いが叶っていた頃。

私は山口の小さな田舎で育った。本当にそこはとても静かな場所で、川と山がとてもきれいに見える私のふるさとだ。

ようやく10年くらい前に、実家近くにコンビニが出来て、ちょっとは近代化したけれど、緑の匂いと鳥の鳴き声は、今も昔も変わらない。

子供の頃、私はよく田んぼで遊んでいた。(もう使われていなかった田んぼ。)今でもよく覚えているのが、当時の僕らのあいだでは”戦争ごっこ”と言う遊びが流行ってた。これは恐らく、僕らのまったくのオリジナルな遊びで、その名のとおり、田んぼで”闘い”をするものだった。

遊び方はいたって簡単。

7,8人程度の二つのチームに分かれて、田んぼの両端にそれぞれの基地を作って(といっても、わらで壁を作るだけのもの。)互いに、田んぼの粘土みたいな土で、玉を作って、思いっきり投げあい、当たったら死んだことになって、どちらが最後まで多く生き残るかを競うもの。(球が当たると結構痛かった。)

簡単に言えば、雪合戦を田んぼでしているようなものだ。あの頃はたくさん子供がいたから、小学1年から6年生までが入り混じって、みんなで遊んでいた。

でも、この遊びには、いつも悲しい結末が待っていた。楽しい遊びであるはずの”戦争ごっこ”が、最後には本当にケンカになってしまって、球の投げあいがどうしようもないほど、エスカレートしてしまうのだ。

”いてぇ!お前、わざと強くぶつけたな!”
”お前が先にやったんだろうが!”
”なんだと、このやろー!”

元はといえば、それがこの遊びのルールなのに、そんな声があちこちで聞こえるようになってきて、それが次第に激しくなって、誰かが泣き出し、憎しみあい、そしてもう手が付けられないほどのひどいケンカになっていった。

服はびちょびちょ、顔は泥だらけ。鼻血を出している子もいれば「おかあさーん」と大声で泣いている小さな子供もいる。

みんな鬼みたいな顔になって、本当にそこは子供たちの戦場と化していった。私は当時、小学4年生くらいの中間管理職(?)みたいな立場にあって
上級生におろおろしながら、下級生に”泣くな!”と威張るように怒鳴りながらも、心では”こんなことになるなら、こんな遊びするんじゃなかった”と
いつも後悔していた。

最初はいつも楽しく笑いあっているのに、最後には泣いて、怒鳴って、誰となく、それぞれが家に帰ってゆく。それがとてもイヤだった。なんだかとても切なかった。私はよくその場所に、ひとりだけ残っていた。ひとりでただ、泣くために、その場所にずっと残っていた。

空はまだ、とても青く染まっていて、でも、ここにはもう誰もいなくて、小鳥の小さな鳴き声が、山の辺りから聞こえていて、いつの間にか静かになってしまったこの場所は、まるで捨てられたおもちゃみたいだった。

今もひとりきりでいると、時々、あの感覚を思い出すことがある。最初はうまくいっていて、でも、それがだんだんダメになっていって、気づけばひとり、残されている。大人になった今の私には、そんな状況は何度となく訪れる。そのたびに私の幼いこの心は、あの頃を思い出してる。

”みんな、早く、仲直りできないかな。
早く、仲直りできたらいいのに・・・。”

あの頃ひとり、私はずっと祈ってた。青い空を見上げながら、山や小鳥にお願いしてた。その願いは、いつも数日後には必ずと言っていいほど叶ってた。みんないつしか笑ってた。いつしか仲直りしていた。そしてまた、忘れた頃に戦争ごっこをしては飽きもせず、あんなふうにケンカしていた。でも、願いはいつも叶ってた。だから、私の願いはいつも叶うものと信じていた。

でも・・今はどんなに願ったとしても、もう、願いはうまく叶わない。まるでピーターパンのように、大人になったこの私では、もう魔法は消えたかのようだ。

どんなに望んでも複雑に絡み合ったいろんな糸は、簡単にはほどけない。それがずるい大人のやり方。悲しい涙でしかないのに、あの頃のそんな思い出だけが、今の私にはとても優しい。

思い出のあの田んぼには、今はアパートが建っていて、あの頃みたいな子供たちの声は、もう二度と聞こえないけれど、山や小鳥たちは今もきっと、静かに見つめているんだろう。

泣いていた僕たちを、
仲直りしていたあの頃の僕らを。

最後まで読んで下さってありがとうございます。大切なあなたの時間を使って共有できたこのひとときを、心から感謝いたします。 青木詠一