紫の季節2

「塩の芸術家」から死を想う(占部まり)

多くの人が天寿を全うする時代、誰もが前向きに人生の幕を下ろせるようになるには? 「死を想う」をテーマに日本メメント・モリ協会を設立した著者が、その人らしい生き方と最後の時間を考える。
連載:死を想う――その人らしい最期とは

内なる記憶と対話する

もう一度、大切な人に会いたい、思い出に触れたい、という強い願望のもとに創作活動をされている山本基さんの作品を見に金沢まで行ってきました。作品が展示されていたのは、金沢21世紀美術館の企画「変容する家」です。

山本さんが登壇されたアーティストトークにも参加し、「言語化せず、考える・感じる」ことも、「死を想う」重要な手立てであることを再確認しました。言語化できないようなものを感じていくプロセスを通じて、絶対的に思えるような「死」という概念ですら曖昧なことのように思えてきた不思議な時間でした。

山本さんは、1966年の広島県尾道市生まれの「塩の芸術家」です。1994年、当時24歳であった妹さんを脳腫瘍で亡くし、2016年秋、奥様を亡くされました。そして大切な方の死後、清めとして用いられる塩を作品作りの題材に選びます。

塩は立方体の透明な結晶。しかし複数集まると白く見えますし、湿度によっては色が変化していきます。塩は人間にとってなくてはならないもの。創作活動を続けるに従って、塩には生命の記憶が内包されているのではないか、と山本さんは感じるようになってきたそうです。

今回私が見た作品は、「紫の季節」。山本さんが奥様と歩かれた散歩道にあった、大きな紫木蓮がモチーフです。どちらかというと赤に近い紫に塗られた床に広がるその作品は、壮大で、繊細。制作期間は2週間、のべ110時間。使用した塩は100キロあまり。

大切な方を亡くし、日々薄れていく記憶を繋ぎとめておきたい、という切実な想いが彼の原動力となっています。ただひたすら塩で描き続ける作業は、内なる記憶との対話を引き出してくれるもの。その内なる記憶は、言語化や映像化できるものではなく、本当に心の奥底に根付いている根源的なものなのかもしれません。

紫の季節(元ちゃんハウス, 2018)
photo © Motoi Yamamoto

「生命」と「いのち」

富山県にある「ものがたり診療所」を基盤に、在宅を中心に緩和ケアをされている佐藤伸彦先生は、「いのちには、二つの側面がある」とおっしゃっています。

ひとつは、生命と書いて「いのち」と読む物理的なもの。心臓が動いている、といった科学的な観点から生命を捉えたものです。もうひとつは、ひらがなの「いのち」で、これは「ものがたられるもの」として生命を表しています。

物理的な側面と、ものがたりの側面。後者には、人が亡くなると物理的にはいなくなるが、その人がこの世に存在していたことは消えて無くならない、という意味が込められています。

山本さんにとって物理的には、妹さんも奥様もこの世には存在しません。しかし、ものがたられる「いのち」としての彼女たちは、山本さんの中で生き生きと存在し続けています。さらには、言語以外のものを媒体とすることで新たな側面が照らし出されるものでもあるのです。

山本さんは自身の作品展示が終わると、作品に関わった人や希望する人と作品を崩し、作品の素材であった塩を集めて、その塩を海へ還すというプロジェクトを2006年から始められています。

崩される運命にある作品には、それゆえに放たれる静謐さがあります。永続的に存在する作品ではないということは、必ず死に逝く人間の儚さと共有される感覚なのかもしれません。しかし、塩が海に還り、循環されることに想いを馳せることで、ものがたられる「いのち」の永続性を感じます。

「常に曖昧な存在」と、私たちはどう向き合うか

クリスチャン・ボルタンスキーという、ポーランド系ユダヤ人の現代芸術家は、一貫して『名もなき人びとの「生」と「死」』をテーマに創作しています。「その場所に耳を傾ける」ことを大切にしている彼は、東日本大震災の際に被災地を訪れ作品を作りました。

そして出来上がったのが、古着の山をクレーンがつまみ上げ、それを落とすという壮大なインスタレーションです。無機物であるクレーン車が、あたかも神の手のごとく見えてきて、人々の運命を翻弄していることを想起させる作品です。

犠牲となった名もなき人々を表現しながらも、一人一人にはそれぞれの人生があることをボルタンスキーは強く意識しています。瀬戸内海の豊島には、人々が生きた証として「心臓音」を収集するボルタンスキーのプロジェクト『心臓音のアーカイブ』が展開されています。

心臓の音の主が亡くなった後も、そこには心臓の音が保存されており、それを聞きに来ることができる。しかし、それは瀬戸内海という多くの人にとってアクセスが良いとは言えないところにある。存在することはわかっているけれども簡単には聞きに行くことができない。重要なのは、「そこに存在することがわかっている」ということなのかもしれません。

山本基さんも同じようなことを話されていました。「迷宮(labyrinth)」という彼の作品は、中心部から描き始めていきます。中心部のゴールは大切な人との思い出なのですが、 迷路がそのゴールにつながっているかどうかは重要ではなく、そこにゴールがあると知っていることが重要なのだそうです。

迷宮(Halsey Institute of Contemporary Art, Charleston, 2006)
photo © Motoi Yamamoto

こういった曖昧さというのは、アートでしか表現できないのかもしれません。医療の現場では、治療するしないという選択をはじめ、白黒をはっきりさせなくては先に進むことができません。決断の連続とも言えます。

しかし、人というものは、常に曖昧な存在です。ある選択が存在することはわかっていても 、それを選択しないこともある。医療が絶対的なものではないということでもあります。医療現場で決断をする過程において、そのことを常に心に留めておくことが重要なのだと思います。

医療関係者の間でもリベラルアーツの重要性が高まっており、アメリカの大学の医学部では、人体のデッサンや美術館博物館の訪問レポートといったことが行われています。

患者さんの症状を言語化し、情報共有し、診断治療をしていく。そんな論理的なプロセスを学ぶとともに、患者さんの人生のものがたりを共有し、言語化されない情報に対する感覚を養う必要性が、ますます大きくなってくるのではないでしょうか。

占部まり(うらべ・まり)
日本メメント・モリ協会 代表理事。東京慈恵会医科大学卒業。米国メイヨークリニックのポストドクトラル リサーチフェロー(1992~1994年)などを経て、現在は地域医療の充実を目指し内科医として勤務。宇沢弘文死去に伴い、2014年に宇沢国際学館・取締役に就任。2017年に日本メメント・モリ協会設立。(noteアカウント:占部まり

上野千鶴子×占部まりトークイベント
「在宅ひとり死を可能にするために」を開催します。

日本における女性学・ジェンダー研究のパイオニアである上野千鶴子さんと、本連載著者の占部まりさんの対談イベントを開催します。対談に加え、参加者のみなさんを交えて語り合う時間も設けています。少人数ならではの、登壇者との密なお話をお楽しみください。
また、イベント終了後はご希望者向けに懇親会も開催します。個別に登壇者とお話しできる機会ですので、ぜひイベントの学びや親交を深めていただけたらと思います。

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