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産声

最初にノートを投稿するにあたって何を書こうか考えているとき、ふと「産声」という表現が頭をよぎった。

別に自分は今まで何度も小説を書いてきているし、今更何か文章を書くことに特別な思い入れはない。それでも、新しい媒体のまっさらな紙にこうして向き合ってタイプしていると、不思議と新鮮な気持ちになってくる。

やがて、何か新しい自分の中の衝動が生まれてくるのを感じる。あたかも、私の内部にうごめく未知の世界が誕生し、自らの存在を主張して泣き叫ぶかのように。

そんなわけで、一番最初の投稿は「産声」という題名にした。
日常生活ではほとんど耳にしない言葉であるが、いざ改めて何度か口に出してみると、不思議と柔らかくて母性に溢れた神聖な響きをしているように感じる。

このNoteをはじめた思いつきに比べたらいささか仰々しすぎる気もするが、まあ、何かが生まれるときってのはそれくらい軽率であるほうが多いのだろう。
ニュートンが万有引力の、エジソンが竹のフィラメントの産声を聞いたとき、彼らがその前兆を感じ取ることなどなかったに違いない。

さて、そんな経緯でこのただの書き散らしを代表する言葉が決まったわけだが、私がこのようなことを考えたかというと、つい最近、Xをふと見ていたときに、VTuber界では初めての『ツイート』(自分は頑なに『エックセズ』とは言わないつもりだ)のことを『産声』というらしい、と知ったからである。


かつて、Vtuberという文化に興味をそそられたことがあった。

自分以外の誰かになりきって、そのキャラクターになりきることで、自分のなりたい姿になる。そうして出来た魅力的な自分像を「雑談」「ゲーム配信」「歌ってみた」などありふれたコンテンツに乗せると、顔も声も分からぬ称賛コメントの羅列と無機質で露骨な登録者数の増加によってのみ、その対価の承認欲求が満たされる。

すべてが匿名のサイバー空間で完結しているのに、さて彼らは一体何を体験しているのだろう。虚構と虚構の戯れにその生きる意味を見出す人は、現実とのはざまに何を見ているのだろう

そして何より面白かったのは、その中でも不思議と「中の人」がふとした瞬間に垣間見える人のことを、我々はどうも好意的に思ってしまうようである。その矛盾をどう捉えようか自分の中でもまだ答えは出ていない。

私も一時期見ていたとあるVtuberは、その可愛らしいデザインとファンシーなキャラクター設定に似ず、下品な笑いを好み、声がうるさく、リスナーを煽るのが大好きな騒がしい性格を押し出していた。でも時々、サブスクリプションに登録しているメンバーにだけは、現実世界の愚痴を吐いたり、日頃の辛さに共感を求めたりしていた。

人々は彼女の良さをこういった。「設定にこだわらず自分を貫く所が良い!」「弱音を吐いたりとか、人間らしいところがいいんだよな」「すごく共感できる」


……なぜ、虚構に人間らしさを求めているのか??
それでは、ただ生身の配信者を応援するのではなく、なぜとてつもなく分厚い殻を被ったキャラクターに共感しようとなど思うのか??

彼女は人気だった。まだ今ほどVtuberが流行っていない時代に50万人もの登録者がいた。
では、その50万人は一体彼女の何を見ていたのだろう。

私は思う。
彼女は、いや私達は、自分を真に殺したくは無いのだろう。

日常生活の中に疲弊した人は、バーチャルにその生きるすべを求める。そこだけが自分のオアシスだと思い逃げ込んでいく。
だが、そのバーチャルはあまりにもリアルとかけ離れているので、そこに自分を見出すあてがなく、自分の芯を見失った感覚にもなってしまうのだ。あたかも、知らない町に外国にいったときのごとく。

でも結局、身体を持って生きているのはリアルだ。二次元のイラストや文字の羅列ではなく、私達なのだ。だから、バーチャルに逃げている間にも、無意識のうちにリアルとのつながりを探し、それが繋がったとき、ようやく我々は思うのである。
「ああ、私はここにいていいんだ」
と。

こうして彼女はVtuberのアバターに、リアルな自分とのリンクを見出し、自分の価値を発見した。我々はそれを見て、自分と同じく疲弊している境遇の人が夢を見ていることを知り、その夢をずっと見ていたくなる。

これが、彼女が売れた理由に違いないと思う。
我々は虚構に向き合った分だけ、現実との差分をくっきりと自覚するものなのだ。


こんな感じで、このNoteはただ自分が思っていることを駄文にして垂れ流すだけである。
気分が乗れば書くし、気分が乗らなければ書かない。2000字以上書く日もあれば、300字で終わるときもあるかもしれない。だがそれでいい。一度制約に規定されてしまえば最後、義務感は創作意欲を墓場へと引きずり込む。

そもそも、このNoteをはじめたきっかけが、自分の小説への意欲の波をどうにか改善したいと思ったからである。

実はさっきまで書いていたVTuberに関する内容は、私が友達と伊香保温泉に旅行に行ったときに書き途中だった小説と一部重なるところがある。

その小説も思いついたときは、これは世紀の傑作になる、と勢い込んで書き始めたのだが、やがて少し時間が空くと日常の忙しさと他の思考に置き去りにされてしまう。

最近はありがたいことに自分の過去の小説をみんなに読んでもらうことが多く、創作意欲は非常にあるのだが、いかんせんそれをアウトプットするハードルを超えられない。
色々思考してもその結果として何も文字に残していないのは何とももったいない。

だから、私はこのNoteを、本当に自由に制限なくアイデアを貯める場所として使う。
いつか、ここに捨てたおいた文章のゴミが、自分の小説のエッセンスとしてリサイクルされることを願って。

産声はいつだって、唐突なものだから、ね。


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