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「武士道」の意識レベルと思考パターンを考察


ふと思い出した「切腹」


PNTトレーナー養成講座Day1で、意識レベル「恥」の概念を学んだ時、私の頭にはサムライの切腹が思い浮かんでいました。

「菊と刀・光文社古典新訳文庫」で、文化人類学者のルース・ベネディクト氏は、日本人の文化の形は「罪の文化」と「恥の文化」の二つで、他人の反応や評価が正しさの基準となるとしています。

これが本当だとすると、「恥」と「罪悪感」という低いエネルギーと、「他者基準」を美徳として、果ては切腹をしていたということなのでしょうか?
確かにこの状況であれば、自ら命を絶つ可能性があるのも事実。

サムライの最期の誇りである切腹は、低い意識レベルで選んだネガティブな選択肢だったのでしょうか?

確かに現代の日本人にも「罪の文化」と「恥の文化」は強く感じますね。

「そんなことして恥ずかしくないのか。」
「恥を知れ。」
「お天堂様がみている。」

このような言葉があるように、これに基づく思想が同調圧力に働くこともあるでしょう。
それによって自分を抑え込んで生きている人も少なくありません。
これは私が毎日カウンセリングをしている肌感覚で、強く感じていることです。

しかし、武士という階級が現実にあった時代の「恥」や「罪」の意識と、現代の感覚は同じなのでしょうか?

気になって新渡戸稲造著、「武士道」をもう一度(要所要所)読んでみました。

特に正解を見つける話ではありませんので、自分はどう思うかと考えながら生暖かく読んでいただけると幸いです。

武士道とは

新渡戸稲造氏は、武士道を「高い身分の者に伴う義務」「道徳的原理」と表現しています。誇り高い雰囲気を醸し出していますが、「義務」と表現している時点で、現代人の私はまず息苦しさしか感じません。

数十年、数百年もの長きにわたる日本の歴史の中で、武士の生き方として自発的に醸成され発達を遂げたもの。(特定の個人がモデルではない)
とも表現されており、新渡戸氏は武士道を、「道徳史上、英国憲法と同じ位置を占めている」としています。

英国憲法は騎士道で決まったのでしょうか?

私はさっそく、このなんとな〜く情緒で決まっていく「コミユニティーの決まり事」の厄介さ、その犠牲者の存在を想像してしまいました。

サムライに斬り殺されますね。
出来るだけ先入観は我慢して、読み進めていきましょう。

勇気のレベル

「勇・勇気と忍耐」という章があります。
PNTでは「勇気」を低いレベルの境界線と位置付けています。
PNTトレーナーはクライアントの意識をこれより上に持っていきたいのです。

「勇気」の意識レベルは、ポジティブな影響を与えるか、ネガティブな影響を与えるかを識別する臨界点です。
PNTでは、この勇気のレベルでは病気をひっくり返すほどの力は無いと考えています。

さて武士道では、「勇とは正しきことをなすこと」となっています。

まさにここまでのレベルでは、二極性が存在していますから、「正しい」「正しくない」の話が出てくるのも納得です。

更に、死に値しないもののために死ぬことは「犬死」とされ、勇気と同一視してはならないとも書いてあります。

値する、値しないで考えているところが、やはり勇気レベルなのかなと思いますね。

「戦場に飛び込み、討死するのはいともたやすきことにて、身分の賤しき者にもできる。生きるべきときには生き、死ぬべきときには死ぬことこそ、真の勇気である。」と、かの有名な水戸光圀も言っているようです。

この「生きるべきとき」というのは、それこそ「恥を忍んででも」生きることも含まれるのでしょうか?
それとも、ちょっとでも「恥ずかしい」と感じることがあったら、死を選ぶのでしょうか?

それって生きるより楽なのでは?

どうやらサムライが「生きるべきとき」をどう捉えているかがポイントになりそうですね。

命以上に大切な「名誉・名声」

新渡戸氏は「名誉は武士階級の義務や特権を重んずるように、幼児の頃から教え込まれて、武士の特質をなすものの一つ。」として、「幼児の頃から名声がなければ野獣に等しく、高潔さに対する屈辱を恥とする感受性を育てた。」と書いています。

野獣て・・・高潔さに対する屈辱ってどんな感情よ?

この恥の感覚は、サムライが少年時代から最初に教えられる徳の一つだそうで、「笑われるぞ」「名を汚すなよ」「恥ずかしくないのか」といった言葉で、過ちを犯した子供を正そうとしたのだそう。

今なら毒親認定は避けられませんね。

新渡戸氏はこのやり方について、「あたかも彼が母胎にいた頃から名誉で養われたごとく、子供の琴線を刺激した。」と、サムライは胎児の頃の栄養が「名誉」だったくらいの勢いだ、と言っているのです。

興味深い時代ですが、私はサムライに生まれなくてよかったです。

PNTで学んだ「恥の意識レベル」は、顕在意識が「屈辱」で、ここまでは武士道とも共通しています。

<恥の意識レベル>
顕在意識⇨屈辱
最も死に近いレベル
人生を維持するのが困難
無価値感(自分はいてもいなくても変わらない)
空虚
希死念慮

PNTトレーナー養成講座

サムライにとっても「恥」はこれほどに空虚なものなのでしょうか?
不思議ともう少しエネルギー強めに感じますよね。

私は名誉や名声を、「他者基準」だと考えます。

ここまでを単純に文章上で判断すると、武士道とは強烈な恥と罪の意識レベルであり、反映分析型で他者基準で問題回避型という、副腎疲労の道を突き進む生き方すぎるように思えます。

武士道とは副腎疲労の道なのか?

もし名誉と名声が得られるのであれば、サムライにとって生命は安いものだと思われた。そのため生命より大事だと思われる事態がおこれば、彼らはいつでも静かにその場で一命を棄てることもいとわなかったのである。

生命の犠牲を払っても惜しくない事態とは何か、それが忠義というものである。忠義という徳、すなわち君主に対する服従や忠誠の義務。

新渡戸稲造 武士道


死んでも良い理由が義務!!??

要は、生きるも死ぬも、個人の感情ではないということじゃないですか。
これはもはや積極的な無価値観では!?

そしてとどめの一文が。

『武士道は個人よりも公を重んじる。』

そもそも論、サムライの世界は個より公。
生まれた階級の中で忠義(他人の人生優先)を第一に生きることに疑問を感じないように、「恥」と「罪悪感」の意識を植え付けて、縛り付けていただけじゃないの?

これは・・・・私の感覚では全てを理解するのは難しい!

切腹、命をかけた義の実践

名誉を何よりも重んじるサムライは、自らの潔白を証明することが自らの命を棄てるに十分な理由なのだそうで、「私は己の魂が宿るところを開いて、その状態をお見せする。それが汚れているか、潔白であるか、とくと貴方の目で確かめよ。」とか言ってしまう。

いや、もちろん、潔白なら内臓が白いとかないので、その行為自体が潔白を証明するものとして認知されていたのでしょう。

なんだったら限りなくクロでも、「もう切腹したんだから」と物事を終わらせるきっかけにしていたのでは?

新渡戸氏も「武士道において名誉に関わる死は、多くの複雑な問題を解決する鍵として受け入れられた。」と書いています。

サムライの切腹は法制度としての三の儀式だった。中世に発明された切腹は、武士が自らの罪を償い、過ちを詫び、不名誉を免れ、朋友を救い、己の誠を証明するための方法だったのである。法律上の処罰として切腹が命じられる時は、荘厳なる儀式をもって執り行なわれた。それは洗練された自殺であり、冷静な心と沈着なる振る舞いを極めた者でなければ実行できなかった。それゆえに切腹は武士にとってふさわしいものであったのだ。

新渡戸稲造 武士道

洗練された自殺って、なかなかのパワーワードですね。

このような価値観であるので、「切腹」が乱用された時代もあったようです。
到底それに値しない場合でも、血気盛んな若者が死に急ぐ事態になったというのです。

おいおい、名誉、どこいった?

ここで唐突に私をホッとさせる「真のサムライ」が登場しました。

真の名誉とは

とはいえ真のサムライにとって、いたずらに死に急いだり死を憧れることは、等しく卑怯とみなされた。たとえば一人の典型的な武士(山中鹿之介)は、敗戦に次ぐ敗戦で、野山を彷徨し、森から洞窟へと追い立てられた。そしてついに刀は欠け、弓は折れ、矢は尽き、気がつけば一人薄暗い木立の影で飢えていた。(中略)だがこのサムライはここに及んでも死ぬことは卑怯と考え、(中略)不屈の精神で即興の歌を詠み自らを奮い立たせた。

新渡戸稲造 武士道

山中さん、そんな時でも歌を詠むところが流石です。

サムライが「生きるべきとき」をどう捉えているかがポイントになりそうだと書きましたが、その答えがやっとここに出てきました。

決してすぐに死を選ぶのがサムライではないのです。

新渡戸氏は「この気概こそが武士道の教えである。」として、「あらゆる艱難辛苦に、忍耐と正しき良心をもって立ち向かい、耐えよ、ということである。」と言っています。

武士道って幾つあるの。
そもそも口伝や幾つかの格言がベースらしいから、いろんな武士道があるのでしょうね。

真の名誉とは、天の命じることをやり遂げるところにあり、それを遂行するために招いた死は、決して不名誉なことではない。だが天が与えようとしているものを避けるための死は、まさに卑怯である。(中略)すなわち死を軽蔑するのは勇敢な行為である。だが生きることが死ぬよりも辛い場合、まことの勇気はあえて生きることである。

新渡戸稲造 武士道

新渡戸さん、最初からこれ言ってくださいよ。
サムライはこの心意気があって、その上であえて名誉の死を選ぶこともあるだけであり、決してそれが武士道の中心にあるものではないのですね。

「武士道」は海外向けの本だから、どうしても彼らが知りたい「seppuku」に関するサムライの心理解説がメインになっちゃうのも仕方ないのでしょうね。

サムライは生存欲求より目的欲求だったと思う

PNTトレーナー養成講座Day1で一番印象に残った言葉は、「生きることが目標になるとエネルギーは低下する。人はいつか死ぬ、生きることを目標にしないで、この人生で何を残すかを考えると、エネルギーは上昇する。」というものでした。

がんを治すことをやめて好きなことをしていたら、がん細胞が消退する例があるように、生きることに執着しないことで人は大きなエネルギーを発揮することができるようになります。

まさに真のサムライは、常に生きること自体には執着せず、どんな生き様を残すかにこだわって、「生きて」いたのではないかと思います。

生きる目的である「天の命じること」が、現代人の私から見ると他者基準であっても、当時の価値観では最高に自分基準だったのかもしれないと思います。

君主の子を守るために我が子の命も差し出すことを、子供本人も家族も真から納得して、悲しむことなくやり切った例も「武士道」の中には出てきます。

これがもし、壮大な集団催眠だったとしても、本人達がそこに何を残せるかと言うところに大きな価値を持っているとしたら、これは自分基準とは言えないでしょうか?

私の結論は、「時代」にはそこに生きる人たちの全体の「意識レベル・思考パターン」があり、そのレベルによって「個人の思考パターン」がその人に与える影響に時代による違いが生じるのではないかと考えました。

サムライの時代は最も低いレベルの「恥」や「罪悪感」が行動の原動力となる時代であり、バリバリの他者基準が思考パターンの多くを占めているけれど、この低いエネルギーの中でいかに「自分がそれを選んで生きているか」を突き詰めた結果、生存欲求を手放すことができたのかもしれないと思うのです。

現代を生きる私たちが、命に関わる病気になった時でなければ得られにくい感覚に、サムライは日常的にいたのかも知れないという仮説です。

現代ではとても言いづらい言葉ですが、

「命は他の何よりも重いということはない」

という事実を、誰もが潜在的に理解し、今よりも言いやすかった時代が、サムライのいた時代なのではないでしょうか。

「武士道」の中に、

「恥はあらゆる徳、立派な行い、良き道徳の土壌である」

という言葉が出てきます。
この一文の低いエネルギーは、時代のエネルギーだったのかもしれません。

この意識レベルでありながら、目的欲求で生きることができたのは、何故なのでしょうか?

真実は、生のサムライの社会で生きてみないとわからないのかもしれません。

そして現代を生きる私たちは、たくさんの自由がありながら、8割以上の人が「恐怖の意識レベル以下」で生きていて、他者基準で問題回避型で、生存欲求に縛られています。

コロナがそれを実感させてくれました。

時代はサムライが生きている時代より高いエネルギーと思考パターンを選べるはずなのに、どうしてなのでしょうか?←お前もな!

長文にお付き合い頂きありがとうございました。

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