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ヒゲダンの『アポトーシス』が名作過ぎるので歌詞を1行づつ解説する。#2

というわけで前回1番までいろいろと書きなぐった勝手に歌詞解説コラムなので、2番について続けていきたいと思います。

一応、ここにも動画を埋め込んでおきます。ぜひBGMに流しながら読んでいただければと思います。

軽くおさらいがてらの前フリですが、主人公が死に対し揺れ動く感情を吐露してしまったのが1番だとすると、不安定な気持ちをさらに深堀りして描写するのが2番、という感じです。早速いきます。

いつの間にやらどこかが 絶えず痛みだし うんざりしてしまうね

内面的な痛みなのか、肉体的な痛みなのか、明確にはしていませんが、早くも「うんざり」という単語が出てきて、愚痴っぽさ指数は急上昇です。この後のフレーズを考えると、肉体的な痛みの可能性が高そうです。

ロウソクの増えたケーキも 食べ切れる量は減り続けるし

誕生日にロウソクが増える=歳を取る=食が細くなる=肉体的な衰え、という訳です。増減を対比させたシンプルなレトリックですが、この表現も好評で、とても効果的ですね。

吹き消した後で包まれた この幸せがいつか終わってしまうなんて

「ロウソク」があると、炎が消える=死のメタファーとして捉えたくなりますが、ここでは単に誕生日会の小道具の一部、というだけのようです。ロウソクが消えて、煙にふわふわ包まれて、ケーキを取り分けて、美味しいねって食べる時間までは当然幸せです。しかしケーキもなくなり、お皿も片付け、誕生日会が終わってしまうことについて、彼女は異議を唱えたいようです。

あんまりだって誰彼に 泣き縋りそうになるけど

でも誕生日会に終りがあるなんて当たり前のことに、いまさら文句を言う筋合いもないですよね。おそらく、幸せな時間が失われる=記憶が無くなってしまうことについて、彼女は誰彼かまわず泣き縋りたいほど悔しいのだろうと想像できます。

さよならはいつしか 確実に近づく

ここは1番のリフレインですが、少し意味が重くなっている気がしませんか?「さよなら」の意味が肉体的な死であると確定しているからです。

校舎も駅も古びれてゆく 私達も同じことだってちゃんと分かっちゃいるよ

ここでの具体的なモチーフは、古くなるものであればなんでも、自分の家でも、飼っているペットでも何を取り上げても良いはずです。例えば「大事なペットが年老いていく」となれば、こちらの方が悲しい度合いが高いような気がします。しかし「校舎」と「駅」を藤原さんは選びました。それはやはり記憶と忘却が2番のテーマだから、と僕は推測します。

古びた校舎や駅は多くの人が想像しやすい、という理由もあるだろうとは思いますが、どちらも、ある時期生活の中心にいて、それがいつしか忘れ去られがちな存在ということが大きいのではないかと思います。学校に行っている時は校舎は第2の家であり、最寄り駅は第2の玄関です。しかし卒業や引っ越しで関与がなくなると、あっという間に忘れ去られてしまう。そんな存在として、校舎や駅を選んでいるのではないかと思います。大切にしていたペットはなかなか忘れないし、忘れる前提で描きにくい。

さらに「古びれる」というこれもやや引っかかる言い方をしているのも意味がありそうです。「古びた○○」といのは馴染みのある表現ですが、古びれるという言い回しは、日本語として間違いとも言えないが実際使ったことがある人は少ないのではないでしょうか。

僕は1番から続く主人公の態度と関連があると思います。「焦り」「空っぽ」とか「うんざり」「減り続けるし」とか、つまり拗ねる態度が増しているのです。ですから古びれるという語感に、悪びれるという語感を重ねているような気がします。日本語の用法としてややこしい話なのですが、本来の悪びれるは悪いことをしたと思って怯える、という意味で、悪ぶるという意味合いで使われるのは誤用です。しかし、「わかっちゃいるよ」とわざわざ悪ぶる言葉遣いをしているので、「古びれる」もその一連の拗ねるイメージの延長線上にあるような気がします。

今宵も明かりのないリビングで 思い出と不意に出くわし やるせなさを背負い

このあたりから内面描写の切れ味がどんどん増していきます。「思い出」という単語も出てきて、2番のテーマが記憶であることは確定です。ただし、忘れられるのがイヤ、と拗ねていた主人公が思い出と「不意に出くわす」のです。自分でもすっかり忘れていた(たぶん幸せな)記憶があり、なぜ忘れていたんだろう?と持って行き場のない気持ちになってしまいます。「やるせない」は本来自分の内面にこもるものであり、外面や動作には現れないはずです。しかし、ここは自分にとてもがっかりしていることを表すべく、背負うという動作により自責の重さを示しています。

水を飲み干しシンクに グラスが横たわる

何気ない描写ですが、歌詞の中の白眉と言える部分かもしれません。やるせない気持ちを鎮めるために、コップの水を飲んだ、というだけです。何かを決心するとき、あるいは気持ちを切り替えることを水を飲み干す行為で代替するのはそう珍しいことではありませんが、空のグラスを立てて置くのではなく、シンクに横たえることに非常に強い意味があります。この後に続く主人公の内面描写と、この歌詞全体のテーマをリンクさせる重要なアイテムになっていると思います。

空っぽ同士の胸の中 眠れぬ同士の部屋で今 水滴の付いた命が今日を終える

空のグラス=空っぽ同士、眠れぬ同士、というわけで、もはや無機物であるグラスにまで共感が広がっています。部屋の中は他にも眠れぬ誰かがいる(=ダーリン)のかもしれませんが、とにかく水滴の付いた命=暗い部屋で泣きながら横たわり眠れず深夜12時を過ぎてしまった私がいるのです。もちろん、涙を水滴と言い替えているのはグラスとの呼応です。「眠れずに泣いています」と描写するより、どれだけ冷たく、心細く、何も出来ずにいる自分を痛々しく表現できていることか。ある意味寒気がするほどの凄まじい描写だと思います。

解説もないまま 次のページをめくる世界に 戸惑いながら

「解説」というのは、歌詞に使う単語としてはちょっと硬い気がしませんか?それもサビのいちばんハイトーンになる目立つ部分に、です。1番と大サビの「わーかれの」と母音を合わせるということももちろんあるでしょうが、やはり「解説」である必然性があります。

2番のテーマは記憶と忘却(のはず)です。思い出を大切にして生きたいのに、どんどんページをめくられてしまう。焦る。焦るからせっかくの思い出さえ忘れてしまう。せめて何か将来のヒントぐらい見せて欲しい。こんな願いが主人公にはあるはずです。しかし、そのヒントを「説明」や「案内」ではなく、「解説」という温度感のない単語に託しているのです。それは将来に自分の意思を反映したいからに他なりません。

例えば「案内」だとすると、良い方をおすすめされる受け身の意味合いが含まれると思います。「解説」であれば、説明のみであとは自己責任、というニュアンスになります。将来の選択肢があるとして、自分に不利なことが起こりそうだとしても、あえてこちらを選ぶ、というチョイスをさせて欲しいという意思が反映されている、だから「解説」なのだと思います。ただ、それすらも「ない」のですから、戸惑いはとても大きいと言えるのです。

というわけで、いろんな意味でおなかいっぱいな、まさにこの曲の核心とも言える2番の解説をしてみました。自分自身のちっぽけさ、無力感をこんなに掘り下げて大丈夫?と心配になるほどの表現になっていますね。まあ僕の勝手な解釈度合いも増しているのでしょうけれど。。。解説?ちょっと熱量多めなので、歌詞にある「解説」とはもはや意味が違いますね。でも僕のこの意見を採用するかどうかはみなさん次第ですから、その点は同じということでお許しください。

では、次回大サビからエンディングに続きます。

(続く)


サポートのしくみがよくわからないので教えてください。