宇曽利山湖

ハチニー(第六回)

【宇曽利山湖にて】

 東北新幹線に乗って、青森を目指した。窓に流れる風景を見ながら、新幹線で旅行したことあったっけ?と彼に訊ねた。
「あるよ、忘れたの?大騒ぎになったじゃない」
 忘れてなんかいない。彼のAIをちょっと試してみただけだ。彼と私は、その日「脱走」したのだ。高校生だった当時、施設を抜け出して彼と駆け落ちした。初めから駆け落ちしようとして新幹線に乗ったわけではない。互いの好きな気持ちを確認したくて渋谷で待ち合わせをして、何をしていいのかわからず山手線に乗ってぐるぐる回った。遠くまで行けば自立した自分たちをイメージできるかな、という話で3周半で東京駅に降り、片道のお金しか持っていないくせに東海道新幹線に乗ったのだ。
 両方の施設から捜索願が出ており、名古屋で早々に連れ戻された。ある意味で有り難いことなのだが、施設の職員はこういう事態にも慣れている。すんなり引き離され、すぐに元通りの生活に戻った。
 絵に描いたような若気の至りだ。だから今回新幹線の切符を買ったときに、胸のあたりにナイフのような金属を当てられた気持ちがした。彼もそんな思いが消えていないかどうか、確かめたかったのだ。
「今回が二人でいちばん遠くに行くことになるね」
 そうだね。もっともっといろんなところに行きたかった気もするけれど、他の人にはできない、彼と一体化した生活を過ごせた私は、旅行という非日常が必要なかったとも言える。というかすべてが非日常だったので、毎日の些細な出来事もすべてが楽しかった。
「キミの会社の近くで、誰かが道路脇で育てている鉢植えなんだけど、水遣りが足りてないと思うんだよね。東京に戻ったら、できれば水をあげてくれないかな」彼がまた本当に些細な事を思い出して言った。
「うん、わかった。約束する」
 新青森駅についた。今日は青森市に泊まる。シングルの部屋を取り、ひとりでレストランで食事をしたが、言うまでもなく私はひとりではない。
 ホテルに戻って、明日に備えて寝ることにした。
「ねえ、イヤホンだけして、僕を抱きしめてくれない?」と彼が言った。
「うん、わかった。いいけど」私は本体を手に取り、パジャマの胸に当てた。
「見た目がハチニーのとき、キミに拒否された。ショックでもあったし、なんだか嬉しくもあった。なんだろうね。キミも説明できないって言ったけど、僕も説明できない」
 あの夜のこともちゃんと記憶に残ってるんだ、と思い、気が利かないAIの仕様にクレームを付けたくなった。本当に申し訳なくて、こうして一緒にいるのが恥ずかしくなる。
「いいんだよ。嬉しい気持ちもしたって言ったじゃない」
 本体には温度計や気圧、方位、加速度など様々なセンサーも付いている。彼はこうして私の体温を感じている。そして熱が伝わりきって同じ温度になったとき、今度は私が彼に抱きしめられているような気がしてきた。
 心からの安らぎを感じて、そのまま深い眠りに落ちた。
 次の日、恐山に向かった。大湊線に乗って、陸奥湾を半周する旅だ。
「ほら、残された人間とあの世の人間が、ここで接近遭遇するわけでしょ。僕らにぴったりじゃない?最後の旅がこんな場所で、まあキミには申し訳ない気もするけど」
 別に彼は死亡が確定しているわけではない。いまのところ、私も彼もこちら側の人間だ。肉体を失って、もう霊体の気分がしているのだろうか。
地蔵菩薩のご本尊にお参りして、硫黄の匂いが漂う庭園、いわゆる地獄めぐりをした。至る所にお地蔵さんが祀ってあり、風車が供えられていた。賽の河原の石積みも、荒涼とした風景のアクセントになっていた。
彼は同じ場所を何周も回ることを要求した。「死んだらどこに行くのかな?」とか「地獄って本当にあるのかな?」とかこの場所に相応しい会話のきっかけがありそうなものだが、何も言わずにこの光景を記憶しようとしているようだった。「硫黄臭いんだけど」と私が不満を述べると、「はは、ごめん、匂いだけセンサー付いてないんだよね」と明後日な答えで誤魔化された。
 最後に極楽浜に出た。硫黄の強酸性による死の湖だ。砂漠の夕暮れのように、命の気配がないが故に美しい光景が広がることがある。この湖畔もそうした美しさの系譜に入る場所だと思った。
「キレイだね」
「キレイね」
デート気分で言葉が少なくなるのとは違った沈黙が、二人の間に訪れた。別れの間際にこんな場所に連れてくるなんて、どういうつもりだったのだのか訊いてみた。
「もしね、どこか楽しい場所で別れてしまったら、って考えたんだ。例えば遊園地とか。そうするとキミは、その後遊園地に行くたびにきっと悲しい別れを思い出すよね。だからこれからキミが遊園地は遊園地らしく、楽しい気分でいられるように、なるべく楽しそうじゃない場所で別れたほうがいいのかなって」
 彼らしいな、と思ったし、その気遣いが素直に嬉しかった。でもまだ終了期限でもないのに、いまにも別れそうな調子で話すのが気になったのと、違う目的があるのではという疑問が心の片隅にあって、言葉を返しそびれてしまった。
 帰りの大湊線に乗り込むと、私はホッとして大あくびが何回も出た。彼は「今日は本当にありがとうね」と言った。私は「うん」とだけ言ったのだが、そのまま列車の揺れに合わせて眠ってしまった。
 目が覚めたのは、青森駅に着いてからだった。終点だからよかったが、通常の停車だったら完全に乗り過ごしていた。
 彼が何も言わないので、バッグから本体を取り出してみた。全身の血液が凍りついた。バッテリーは、ゼロだった。昨日は充電せずに眠ってしまった。今日活動するのは、計算上は午前中がギリギリだった。本当にうっかりしていた。駅にいた無関係な全員に、「どうして教えてくれなかったの!」と叫んで回りたい気分だった。

つづく


サポートのしくみがよくわからないので教えてください。