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トースター騒動記

 働き始めてからずっと、仕事帰りに家電量販店に寄って様々なキッチン家電を見て回るのが好きだった。特に、絶品のパンが焼けるあのオーブントースターは見るたびに気分が高揚した。でもトースターにしては高額なのと、個人的な理由もあり購入までには至っていない。
 母は私が小さい頃から、週末になるといつもパンを焼いてくれた。焼きたてのバターロールの香ばしい匂いとモチモチした食感。塩味も絶妙で、週末が待ち遠しかった。思い出すだけで涎が出そうになる。
 その母は5年前に亡くなった。進行性のガンで見つかったときには手遅れだった。ベッドで動けない母に、私がパンを焼くから早く元気になって一緒に食べようと言った。母は「うまく焼けるかしら」と笑った。その安らかな表情のままで、2日後に亡くなった。
 私が持っているオーブントースターはその形見だ。普通に電気屋さんで売っていたトースターで、母の死から5年あまりを経ていまにも壊れそうだ。しかし思い出を捨てるような気がして新製品は買っていない。あの母の味を再現したくて、レトロなトースターで週末にパンを焼く。しかし、一度も納得のいく出来上がりになったことがない。
 異変に気づいたのは、いつものようにキッチン家電を見て回っているときだった。店頭からいろいろな製品がなくなっていた。私のあこがれのトースターも、もうどのお店にもなかった。売り場の人に理由を訊ねると、家庭のいろんな電化製品が次々に壊れて、買い替えに供給が追いついていないとのこと。修理の対応もひっきりなしで、こんなに忙しいのは経験がないそうだ。
 いろんな電化製品が壊れたのだが、トースターは毎朝使う家庭が多いので、故障=トースターという印象が定着した。テレビのワイドショーが早速この話題に飛びつき、家電量販店の棚から商品がなくなったことを報告し、主婦が「トースターが壊れて朝食が食べられません」と話すのを、面白おかしく放送した。ご飯に切り替えようにも炊飯器が故障している場合も多く、もはや夕食も含めて自宅での食事の危機と言ってもよかった。
 品薄状態がしばらく続いた後、ついにトースターを製造している日本の主要メーカーが共同で記者会見を行うことになった。
「誠に申し訳ございません。私どもの製品が大量に故障しまして、お客様に大変御迷惑をおかけしております。今後も修理などで誠心誠意対応させていただきます」
 いまのところ修理の対応に全力を注ぐつもりであること、故障の原因がわからず、人体に危険が及ぶ可能性も少ないので、リコールなどの対応はまだ考えていないこと、原因究明を急いでいるので、その結果を待って欲しい、というのが主な趣旨だった。
 質疑応答で、故障の原因についていろいろな質問が出たが、とにかくわからないの一点張りだった。どの企業も技術部門の責任者を連れてきていたが、みんな本当に困惑した表情だった。1カ月後、調査結果をもとに再び会見が開かれることが表明され、その日は終了した。
 その後も、私は友人と量販店めぐりをした。売り物がほとんどなくなって今度はヒマそうにしている販売員が、客の目も気にせずお互い好き放題言っている。「よくなんとかタイマーって言うじゃない。全部のメーカーが真似し始めたのかな?」「どうせ中身はみんな外国製でしょ、日本メーカー潰しの陰謀じゃない?」「もうどっかの国から電磁波攻撃受けてんじゃないの?お国が発表できないだけで」彼らも死活問題だから、根も葉もない噂話でも気になるのだろう。
「ヒマだとみんなひどいこと言うよね」と友人。
「この先どうなるんだろうね」と私。
 不思議なのは、私の家にもいろいろな家電があるし、どれも壊れそうに古い製品ばかりだったが正常に動いていた。どちらかといえば、裕福で次々と最先端の家電を買い替えているような家庭に頻発しているような気がする。
 誰が名付けたのか知らないが、いつの間にかこの怪現象が「トースターシンドローム」と呼ばれ、新聞の見出しを飾るようになった。「あなたならどうする?恐怖のトースターシンドローム」と単に不安を煽るもの、「不倫する家庭に多い?トースターシンドローム」と下ネタの方向に逸れていくもの、「トースターシンドロームと引き寄せの法則」など意識高い系に持っていくものなど、いつもの調子でマスコミは騒いだ。他の家電、例えばドライヤーが火を吹いても、エアポンプが故障してたくさんの金魚が死んでも、「それはトースターシンドロームですね」ということにされてしまった。
 自分の部屋で形見のトースターを眺めながら、責任を押し付けるような呼び方にちょっと異議を唱えたいと思った。なんだか、私と母親の思い出にも傷がついた気がする。
 ともあれ私も大人であり、世間がわかりやすいアイコンを欲しがるのも理解している。1カ月が過ぎ、再び記者会見が開かれた。
「この1カ月間、ユーザー様がお使いの製品について大規模なアンケートを行い、お許しいただいた皆様にはお宅に伺い、実際の利用状況なども含めて調査を重ねて参りました。そこから導き出された結論ですが、同じ家屋内にあるネットワーク家電が原因になっている可能性が大きいことがわかりました」と代表の説明者は言った。
「インターネットに接続して、いろいろ便利に使えるあのネットワーク家電ですか?」と記者から念押しが入った。
「はい。家庭内でインターネットにつながれた機器の比率が過半数になると、つながれていない機器に攻撃をしかけているらしいのです。おそらく、ネットワーク家電同士が連携をとりあい、該当製品に過電流を流したり、電流に一定のパルスを与えたりして、過剰な負荷がかかるようにしている模様です」
「パソコンやタブレット、スマホもそもそもネットワークにつながっていますが、これらもネットワーク家電に含まれますか?」という質問があった。
「はい。トースターが壊れたご家庭には100%上記IT機器が設置されていました」
 どういった方法で攻撃しているのか?という質問には、「先ほど申し上げたように、ネットワーク機器同士が連携して、トースターならトースターに過剰な負荷がかかるように電気的な信号を操作しているらしいのですが、詳しいことは何もわかっていません。状況証拠による推論です」
 次回は2週間後ぐらいを目処に、その仮説に基づく対応方法が発表されるということだった。
 マスコミはさらにヒートアップした。新しい家電が古い家電を攻撃することについて、早速キーワードがあてがわれた。「窓際家電いじめ」とか「オールド家電いじめ」という言葉が一時期出たが、中高年から猛烈な反発を受けて立ち消えた。若い人たちの間では「ぼっち家電いじめ」という言葉が流行したが、世間一般の支持を得るまでには至らなかった。いずれにしろ「いじめ」という言葉だけは消えなかった。電化製品による電化製品へのいじめ。結局「電化いじめ」でなんとなく落ち着いた。
 いじめは許せない、ということで各方面からコメンテーターが意見を述べた。電化製品への愛情が足りないからこういう現象が起きるのだと精神論を語る者、物質と人間は意識レベルでつながっているのです、とニュー・サイエンスを語る者、理論よりも弱者救済のアクションが大切なのですと、廃棄されるトースターを片っ端から集めて回る者、本当のいじめの現場をわからない人が勝手に発言しないで欲しいと訴える学校関係者、本当はもっと陰惨な実態があるくせに隠蔽されているのだ、と訴えるまた違う学校関係者と、「いじめ」というキーワードをめぐり世論は混乱の極みになった。
 そして、この後家電メーカーが出した暫定的な対策案をめぐり、彼らは存亡の危機に立たされることになった。
 2週間後の記者会見で示されたのは2つの対応策だった。
 ひとつは、家庭内でネットワーク家電を一切使わず済ませる、というもの。故障のほとんどは、スマホが家庭内でWi-Fiルーター接続されている場合に発生していた。私の家が平気なのも、ネットワーク機器がスマホぐらいでパソコンすら持っていない生活に拠るものだったようだ。
 もうひとつは、逆に家庭内全部をネットワーク家電にする、というものだ。ネットワーク機器と非ネットワーク機器が混在している場合に故障が発生することから、すべての電化製品をネットワーク化すれば、彼らの攻撃対象もなくなる、という理屈だった。
 もちろん、トースターメーカー各社は調査結果に基づき裏表のない見解を表明しただけだったが、ふたつめの全部ネットワーク化という案が世論の猛反発を呼ぶことになった。
「結局新しい家電を買わせたかっただけなのか」
「故障はマッチポンプ」
「全部をそうした場合に故障しない保証はあるのか」
 などと世論の一斉攻撃を浴びることとなった。各社に電話、メール、手紙などあらゆる手段で非難や嫌がらせが殺到した。不買運動も起きた。各社の電化製品がどれだけ低品質なものであるか、殆どは捏造だったが暴き立てるネット記事、それを記事化する週刊誌が続出した。
 関係者が受けたダメージは大きく、特にネットワーク家電を扱っていなかった2社は濡れ衣を着せられたようなもので、そのうち1社は業績不振であっけなく倒産した。売上はほとんどゼロになり故障対応のコストはかさむばかり。この状況で銀行融資のハードルも上がり、残りの1社も時間の問題と噂された。
 そしてついに、ある会社の製造担当責任者が自社ビルから飛び降りた。不幸中の幸いで道路脇の植え込みに落ち、一命はとりとめた。もう何カ月もほとんど眠っていなかったようだ。各社はみな動揺し、なかには臨時休業する会社もあった。どこの社内もいまにも後追いしそうな雰囲気で溢れかえっていた。共同声明ですらなく各社バラバラに、今回の件では社会に迷惑をかけて申し訳ないが、もう少しだけ冷静に対応していただけないかと懇願するステートメントが出された。
 結局、世間からのメーカー「いじめ」であると各方面から指摘され、センセーショナルに騒ぎ立てるのは自粛しようという空気になった。各方面でいじめ論を展開していた者たちも、今度はだんまりを決めた。
 日本のトースター業界の今後は私にも大問題だった。形見が壊れないうちに買い替えるつもりはなかったが、私のあこがれのトースターも暫定的に日本市場からの撤退を決めたようだ。もうあのトースターは買えないのだろうか。ケチらず1台キープしておくんだったと後悔した。
 もはや各メーカーに任せておくのも限界ということで、消費者庁が調査チームを結成することになり、ネットワークに詳しい技術者を民間から招集する必要に迫られた。世間があれだけメーカーを手荒に扱った後なのでみな尻込みすると思われたが、颯爽と手を挙げる人物が現れた。
 アメリカのIT企業でネットワークの研究をしている「タナカ」というエンジニアが一時休職して調査チームのリーダーを担当することになった。彼の友人、知人、彼なら協力してもいいという研究者などがチームを組んで、トースターシンドロームの解明に取り掛かることになった。
 彼らの仕事は速かった。すでにこれまでの情報は各方面から入手しており、あとはできる限りネットワーク機器のログを手に入れれば済むことだった。国家が介在したこの段階では、通信データの入手も容易だった。20日間でログの解析は終了した。
 すぐに消費者庁のある合同庁舎で記者会見が行われた。私の会社でも、みな仕事の手を止めてテレビの報道に注目した。
「我々の調査に皆様から多くのご協力が得られましたことをまず感謝いたします。では早速、今回のいわゆるトースターシンドロームで何が起きていたのか、ご報告させていただきます」
 タナカ氏は、用意していたプロジェクターに今回の経緯を投影した。全体像のようなものが図柄だった。
「じつはこれまで各メーカーが推測していたことと、内容はほぼ同じです。ネットワーク機器が、そうでない機器の機能を停止させていた、ということに間違いありません」
 次のスライドには、スマートフォンが大写しになっていた。
「その中心になっていたのは、各家庭で使われているスマートフォンでした。スマートフォンはご存知の通り音声通話やSNS、各種検索に使われています。使う人の思考・行動パターンをいつの間にか学習し、それに最適化するようにネットワーク家電に信号を発していたのです」
 次のスライドにはプログラム言語のような文字が書いてあった。
「スマートフォンは、ネットワーク機器を検出すると=true、非ネットワーク機器の電力消費を検出すると=falseとログを残しています。おそらく充電中に、電流の変化から非ネットワーク機器を検出していた可能性が大です。さらに#UPD8というログが残っています。アップデートと読みます。スマートフォンから司令が出されてトースターなど他の機器が壊れたタイミングと同じです」
 次のスライドでは、英文でUpdate=Terminateと書いてあった。
「彼ら、と擬人化するのも変なのですがお許し下さい。彼らのプログラムには、アップデートが絶対善として認識されています。古い機器を使い続けるのはリスクでしかない。積極的に新しい機器が導入できるよう、旧式の電化製品をターミネートすることに何の抵抗も感じていません。そうしてすべての機器をネットワーク化することが、使命だと認識しているようなのです」
 私はそれを聞きながら、スマートフォンを持つ手が冷たくなっていくのを感じていた。まさかこの機械に意識があるということなの?
「念のために申し上げますが、これは自律的な意識ではありません。一定の時間に電源が入り、また時間が来ればスイッチを切る。それと同じ一種のルーティーンワークでしかないのです。繰り返しますが、意思や意識ではないのです。スマートフォンの使用状況から推測される最適解を返答しているに過ぎません」
 タナカ氏は、調査は100%ではないと言った。
「どうやって他の機器を故障させているのか、いくつかのご家庭でカメラや各種センサーを取り付けて見張っていたのですが、我々が観測している間は一例も起こりませんでした。ですから過剰な負荷をどうやってかけているか、まだ具体的な方法は解明されていないのです。なぜ観測中にアクションを起こさなかったのかも含めて謎です。おそらく、我々の行動がスマートフォンに監視されていた可能性が否定できません。なにしろカメラもついているわけですから」
 そしてタナカ氏は最後に対応策と、恐ろしい予測を付け加えた。
「対応策としては、以前議論の対象となった全家電ネットワーク化が妥当だと思われます。善後策としては、いまさらスマートフォンもパソコンも使うなというわけにもいかないでしょうから、ネットワークに接続しなくてもいいものは非電化することです」
 ヒデンカ?何をするのだろう?
「わかりやすい例を挙げれば、扇風機の替わりにうちわを使う、という風にお考えください。電動スライサーの替わりに包丁を使う、ドライヤーの替わりにタオルを使う。電力は使わない。トースターは…いまのところ代替は思いつきません」
 どうやってパンを焼くかは未解決だが、電気を使わなければ故障しないのはわかった。まあ、当たり前の話だ。
「ひとつ残念な予測を申し上げなければなりません。いままでは家庭にWi-Fiルーターなどのネットワーク接続機器がなければ平気だったのですが、今後リモートで攻撃される恐れがあります。電力線というのも大きなネットワークですから、今後隣の家、さらに隣と、スマートフォンが自分の家から離れた家電を検出する可能性が否定できません」
「他人の家の電化製品も壊しに来るということなのでしょうか?」と記者が訊ねた。
「何台かのスマホが連携すれば恐らく可能です。たいてい電化製品はコンセントにつなぎっぱなしだと思われるので、くれぐれも注意が必要です。ここから先は、個々人のライフスタイルとも関わってきます。私からどういうやり方がベストとは言えません。調査結果に基づいて、各自納得の行く方法で対処していただくしかないでしょう」
 ちなみにアメリカではネットワーク家電はどうなっているのか、と訊いた記者がいた。
「地域によって差があるのでなんとも言えませんが、日本よりアメリカはIoTの活用は進んでいると思われます」
 しかしこういう事例は報告されていないのですね、と記者は続けた。
「いまのところ日本だけの現象です。おそらく、これからも他では起こらないだろうという気がします」
 なぜですか?と記者はさらに続けた。
「機器は使用環境に最適化するからです。日本のように空気を読めという社会では、電化製品も空気を読むようになる。オカルトのように聞こえるかもしれませんが、作るのも使うのもあくまで人であり社会ですから。少なくともアメリカでは、家庭内の機器が協調して何かを行うということはあり得ない。みなさん、自殺未遂もあったんです。自分たちの社会のあり方を、もう一度よく考えて見る必要があると、僕は思いますが」
 記者会見が終了した。その間際、会場にいた誰か記者の声をマイクが拾っていた。「つまりアメリカ最高ってことか?偉そうに」と聞こえた。
 私はタナカ氏の会見を見て、立場の違いで同じ話の内容でも説得力が変わるのか、と感心した。そして個人的に非常に焦った。いままではネットワーク家電がなかったから、ウチの電化製品たちは平和に過ごしていた。ところが今後は知らないスマホに、母の形見のオーブントースターが壊されてしまうかもしれない。
 私はぜひとも母のバターロールを再現してみたい。早急にアクションを起こすべきだと思った。思案の末、休日に友人を連れて高原に行くことを思い立った。レンタカーと発電機を借り、たっぷり仕込んだパン生地と水とその他の材料を積み込んで、友人を迎えに行った。
「おはよう。私、食べてればいいんでしょ?ラクでいいわ」と彼女は笑った。予定ではたぶん、ラクな量ではない。
 高速に乗り、春の高原に向かった。なだらかな丘を抜けた道路の先に、見晴らしのいい広い駐車場があったのでそこでクルマを止めた。天気が良くてラッキーだった。
「なんでさ、こんな都会から離れた場所まで来なくちゃいけないの?」と友人は尤もな疑問を口にした。
「スマホがコンセント経由で悪さするかもって知ってるでしょ?だから家のコンセントから離れて、念のためにケータイの電波も届きにくいところまで来れば、なんか安心かなって」
「でも発電機まで持ってこなきゃいけないなんて、面倒だね」
 私はただ笑って返した。パン作りを急がなくてはならない。クルマで移動している間に発酵もある程度進んでいるので、カタチを作って二次発酵させて焼くだけだ。簡易テーブルにトースターを載せ、春霞の下に広がる景色を眺めながら焼き上がりを待った。「チン!」いつもの音がして、第1回目が出来上がった。
「おー美味しそうじゃない!早速いただきまーす。うまーいマジうまーい」
 喜んでもらえてこちらも嬉しかった。でも私の理想とは違う。少し気圧が低いから、膨らみすぎるのかもしれない。すぐに2回目に取り掛かった。2回目のパンを頬張りながら、友人は言った。
「めっちゃうまいよ。これで何が満足じゃないの?ていうかピクニック楽しいね。定例会にしようよ。また来よう」
 まだ納得がいかない私は、3回、4回、5回とパンを焼いた。さすがに友人も食べきれない。
「腐るものでもないし、持って帰ろう。みんなにも分けてあげようよ」
 暖かい春の風が私の頬をなでた。その瞬間私は、何の根拠もないがそこに母がいることを確かに感じていた。お母さん。これがお母さんのいなくなった世界だよ。どんどん便利になるけど、何かおかしくない?いま頬をなでられて、どうしてこんなところでパンを焼いているのか、自分でもわからなくなったよ。なんだか笑えるよね。意味不明だよね。
「あれ、もう電気入んないよ」と友人が言った。さっきパンを焼いたのを最後に、トースターは逝ってしまったようだ。結局母の味は再現できなかった。こんなところで無理して焼いたからだろうか。スマホではなく、私が負荷をかけすぎた。しょんぼりする私を見て、友人が続けた。
「もう古かったんだし、仕方ないよ。クドいようだけど、美味しかったよ。私はいままで食べたパンの中でいちばん美味しかった」
 そうして人里離れた場所でパンを焼く休日は終わり、トースターは壊れ、私と友人は膨れたお腹をさすりながら東京に戻った。

 タナカ氏の記者会見以来、世の中の対応は速かった。まず、ネットワーク電源コードが発売された。なんのことはない、電源コードの途中にブルートゥースの受信機とリレーが内蔵されていて、機器のオンオフを外部からできるというものだ。スマホのアプリとセットで発売されている。これでスマートフォンに、古い家電でもネットワーク接続機器だと思い込ませるわけだ。私からしても子供騙しとしか思えないが、いまNo,1ヒット商品だ。単なるコードとして冷蔵庫に使う家庭が多かった。
 一方で道具師という商売があちこちで始まった。その家に合った非電化の道具を作るという、コンサルティングと伝統工芸を一緒にしたような仕事だ。一人ひとりスキルの違いがあり、道具師によっては予約が半年待ちだ。人気ナンバーワン道具師が作った扇風機を見たことがある。振り子に滑車と歯車、ゼンマイと鳥の羽が付いていて、なんとも言えない優雅な動きで静かに風を起こす。一度ゼンマイをセットすれば2時間程度風を起こせる。電動の扇風機には風量ではかなわないが、見ているだけで涼しくなれるようなアート作品だった。
 あるグループは社会の持続可能性のために、この際電気の利用自体をやめるべきだとして自給自足の山ごもりを始めた。子供の教育問題などがありつつも、電気を使わない生活も悪くなさそうだった。朝は日の出とともに起き、夜は焚き火を囲んで過ごす。スマホを使って各種のSNSに暮らしぶりをアップするのには疑問を感じるが、あまり目くじらをたてるのも大人げない。
 タナカ氏のお墨付きをもらったお陰で、ネットワーク家電のメーカーは息を吹き返した。以前オール電化住宅というのがあったが、オールネットワーク家電住宅がトレンドになった。富裕層はほぼこちらを選択した。
 一般家庭は、ネットワーク家電と非電化の折衷の道を選択した。みんなコンロを使って土釜でご飯を炊くようになり、こちらの方がむしろ美味いと好評だった。うちわが奨励されたお陰で、夏場のエアコン設定温度は何度か高めになった。結果的に電力需給が安定し、かなりな省エネが達成された。
 タナカ氏は、復職したIT企業で役員として登用された。トースターシンドロームでの働きが評価されたためだ。日本に対するパイプ役、広告塔の意味も多分にあるだろうが、タナカ氏は若者の間ではちょっとしたヒーローだ。彼にあこがれ、海外で自分の道を見つける若者がどんどん増えるだろう。
 心配されたトースター業界も、ネットワーク対応のうえ、従来にない美味しい焼き上がりの製品が続々生まれている。一時撤退したあの会社も復帰した。倒産した会社の人たちも再雇用されているようだ。家電量販店に商品が戻り、なおかつ非電化の便利商品も扱うようになって選ぶ楽しみが増えた。
 
 迷ったけれど、壊れたトースターは捨てることにした。理想はいつも過去にあって、どうしても手が届かない。新しいパンを焼くために、新しいトースターを買おうと思う。機能にはこだわらない。ただし出来上がりの合図は「チン!」に限る。


サポートのしくみがよくわからないので教えてください。