初めてのBruno Cathala

今最も勢いのある(個人的な感想)ゲームデザイナーの1人であるBruno Cathalaが、先日自身のウェブページを開設しました(http://www.brunocathala.com/ )。当初記事はすべてフランス語で書かれていたのですが、先週英語の記事が掲載されました。Bruno Cathalaがいかにしてゲームデザイナーとなったのか、を書いたもので、なかなか面白かった(興味深い、考えさせられる、といった意味ではなく、単純にそんなことがあったのか、という意味で)のでCathala氏にお願いして翻訳して紹介いたします。元記事はこちら。あまり正確に訳したものではありませんが(元の英文自体がざっくりとした感じのものでしたので)、経緯は理解できるのではないかと思います。改行などのフォーマットに関しては、訳出の際に適宜修正しております。ご了承下さい。元記事の最初の部分は先日書籍化された“Boardgames that tell stories”についての記事ですが、その部分については省略させて頂きます。


初めてのモダンゲーム

私がモダンゲームに出会ったのはずいぶん遅くのことでした。18歳の時にFiefをフランスのゲーム専門誌(今はもうないJeux& Strategieです【訳注:Jeux et Strategieは1980~1990年の間出版されていたフランスのゲーム専門誌。ボードゲーム・RPG・ウォーゲームなどのアナログゲームを中心にしていたが徐々にビデオゲームに中心が移っていった模様】)で推薦されていたから、という理由だけで購入したのです【訳注:Fiefの初版(仏・伊語)が発売されたのは1981年。Cathala氏は1963年生まれ】。このゲームは丁度Jeux& Startegie誌のPion d’orを受賞したところだったのです(デザイナーは審査員にプロタイプを提出して、受賞したゲームは出版されるのです)。私のまずルールを読みました。そしてすぐに私はにっこりしました。ターンの手順には私が試したことがないようなことが書かれていたのです。秘密の交渉フェイズです。とても面白そうだと思いました。最も面白そうだと思ったのは、約束したことは義務ではない、とルールに明記されていたところでした。ワオ!まさに私のためのゲームです!友人と一緒にFiefを何度も遊びました。遊ぶ度に緊張感があり、衝撃的な裏切りと、そして時には何週間も後を引くような恨みもありました。毎回、もうこんなゲームは遊ばないと言う人がいて、そしてしばらくすると必ずまた戻ってくるのでした。この素晴らしいゲーム体験から、私は2つの結論を得ました。 

1.モノポリーだけがゲームではない! 

2.いつか自分のゲームを作る

初めてのゲームデザイン 

この初めての出会いの後、私は自分のゲームを作ることを忘れてはいませんでしたが、直ちに取りかかることはありませんでした。それにはいくつかの理由がありました。まず、自分でたくさんの異なるゲーム体験をしていなければ、面白いゲームは作れません。そのため、私は何年もの間プレイヤーとしてゲームを遊んでいました。ゲームに関わるものは見つけられる限りなんでも読みました(紙媒体でも、インターネットでも)。様々なスタイルのゲームをたくさん遊びました。次に、ゲームを作るために考える時間がなかったのです。タングステン合金(伝染するようなものではないから逃げないで下さい)についての研究開発の仕事をしていましたし、地元のラグビーチームにどっぷりでした。更に2人の小さな子供がいれば、一日24時間では足りないことがおわかりでしょう!

1999年に変化が訪れました。私は膝を怪我してラグビーを止めなければ行けなくなりました。離婚しました。その年の11月のある週末に、何年かぶりに私は家に1人になりました。ラグビーなし、妻なし、子供なし、友だちなし。自殺するか、なにか面白いことをするか、すぐに決めなくてはいけないような、奇妙な気分でした。そして私はその場で後者を選びました。

街へ出掛けて画像データ集を買いました。データをダウンロードしている間に私は考え始めました。まず、コンポーネントです。カードゲームにしよう。初めてなのだし、カードは作りやすそうだ。次にストーリー。西部劇にしよう。西部の荒野は完璧であると思いました。ワイルドで、特徴的なキャラクターに溢れています。リアルである必要はありません。ユーモアを入れることもできますし、父と一緒にテレビの西部劇を見た日々を思い出させてくれました。その時点ではゲームメカニクスについてなんのアイデアも持っていませんでした。そこで私は西部のアイデアにあう絵を探すところから始めました。西部といえば牧場です。牧場といえば牛です。牛の絵が必要ですが、画像データ集には何百もの牛の絵がありました。そこから3つ選びました。あとでその中から1つを選べばいいと思ったのです。次は牛に餌をあげなければなりません。西部の風景を探しました。同じことが起きました。3つを選んで、次は牛、ではなくてカウボーイです。やはり3つを選びました。

そんなわけで、私のPCには、3頭の牛(太った牛と普通の牛と痩せた牛)、3つの風景(肥沃なものと普通のものと荒れたもの)、3人のカウボーイ(ベテランと普通の人と新入り)のイラストがありました。予想もしていなかったのですが、ランダムに集められたこれらのイラストから、不意に必要なすべてのメカニズムが明らかになったのです。牧草の質によって、それぞれの土地は1-3頭の牛を保持することができる。牛の質によって、異なる価格で売ることができる。牧草地にいる時間が長ければ、牛の価値を上昇させることができる。そしてカウボーイの技術によって、牛を失う確率が変化するのです!あとは相互干渉と楽しさを加えるために特殊カードを何枚か加える必要がありました。その結果《インディアンの襲撃》《鉄道駅》《パニック》《保安官》といったカードができました。週末が終わる頃には、SansFoi Ni Loi/Lawlessの最初のプロトタイプが完成していました。印刷して切り離されたばかりの110枚のカードがテストプレイを待っていたのです!3日後、家に来た友人たちと初めて遊んでみました。嬉しいことにゲームは最初から最後まで何の問題もなくとても上手い具合に遊ぶことができました。ゲームの長さも問題なく、とても楽しく、みんなすぐに2回目を遊ぼうとしました。いくつかのカードはバランスがとれていませんでしたが。

初めてのパブリッシャー

最初のテストプレイは良い感触でした。その後1999年12月の間、私はプロトタイプの改善に努めました。2000年1月の上旬には、すべてを終えたと感じていました。世界で最高のゲームをデザインしたなどとは思っていませんでしたが、どこのゲームショップでもこれより出来の悪いゲームがあるとは思っていました。ですから、自分の感覚が正しいのか、あるいはゲームデザイナーになるという夢を諦めるべきなのかを確かめるために、パブリッシャーと接触すべき時なのでした。私は、パリやフランスのゲーム会社からは離れたフレンチアルプスに住んでいます。当時、私はまったくゲーム業界と関わりがありませんでした。よく知られているパブリッシャーは大きな会社で、連絡をしても私の手紙が親切な担当者の手に渡る率は低いだろうと思いました。ですから小さい会社にあたることに決めたのです。

数ヶ月後、2つのゲームを同時に出した、新しい会社の存在に気がつきました。

ジャック・ヴァンスの小説を元にしたとても良いRPG:Lyonesse  

ユーモラスなイラストのカードゲーム:Dirty Christmas

私のゲームが同じシリーズのカードゲームになりうることは明らかでした。カード枚数は同じく110枚で、速く楽しく、ユーモアがあって……会社の名前は《Men in Cheese》でした。名前から、スイスの会社なのだろうと思いました。インターネットで調べた結果、電話番号と住所を見つけました。ジュネーヴです。私の家から25kmです!電話を取りました。やってみましょう。

「こんにちは!《Men in Cheese》ですか?」

「そうですが」

「お話しできて光栄です。御社の2つのゲームを見て、とても近くにいらっしゃることを知りました。私はゲームデザイナーで、御社が将来に向けて新しいゲームを探しているかどうかをお訊きしたいのですが」

「もちろんです。えーと、明日の夕方はお暇ですか?プロトタイプがあるのでしたら、是非テストしたいのですが」 

「はい、喜んで。では明日」

信じられない!会えるなんて!翌日私はジュネーヴへ向かいました。まず驚いたことに、住所には《Men in Cheese》の名前は郵便受けに書いてあるだけでした。その住所には広告会社があったのです。どうやら広告会社が本職で、ゲームパブリッシャーは好きでやっているだけで、趣味でゲームを仕事にしているということでした。次に驚いたのは、会社には2人しかいなかったことです。2人だけです。彼らは非常に親切で、3回私のゲームを遊び、みんなで楽しみました。その後、彼らは私をその場に残して10分程2人だけで話してから戻ってきました。

「ゲームは大変気に入りました。出版することにしましょう。ただし、そのためにはお金が必要です。私たちは2つのゲームを出版したばかりで、その売り上げがでてお金が入るまで数ヶ月待つ必要があります。準備ができ次第、あなたのゲームを製作しましょう!もしそれで良ければ、待っている間に私たちと一緒にRPGのコンベンションに参加するのはいかがでしょう。そこでプロトタイプのデモをすれば、噂になるかもしれませんし、改善できるかもしれません。どうですか?」

もちろん異存はありません。1ヶ月前には、ゲームデザインをしたことすらなかったのに、今や私のゲームを製作してくれるという人がいるのです。その晩家に帰った私は、世界の王になった気分でした。夢を見ているのではないかと思いました。

そしてゲームデザイナーにとってもっともやきもきする時間が始まりました。待つことです。

1年以上の間、私は待っていました。正確に言えば、待つだけではありませんでした。約束してくれた通り2つのRPGコンベンションに連れて行ってもらいました。それは面白い体験でした。その場に来る人々はRPGのために来ているのであって、ボードゲームやカードゲームのために来ているわけではないのです。その場の人に一緒に遊んでくれるように説得するのは毎回大変でした。しかし、一度遊んでもらえれば、プロトタイプを囲んで素晴らしい空気が造り出されて人々を引き寄せました。私の試遊台が空くことはありませんでした。その間ずっと、私はすべてのアイデアを《Men in Cheese》と共有していました。プロトタイプのファイル(詳細なルール、プロトタイプを印刷するためのデータ、イラストレーターとの仕事)もすべて彼らに渡していました。メールと電話で、週に1回は連絡を取っていました。

そして突然、一切の連絡がなくなりました。とても奇妙で不安にさせる事態が起きたのです。私は彼ら2人のプライベートと仕事用の電話番号とメールアドレスを持っていました。ある日彼らに連絡を取ろうとしたら、すべての連絡先から同じ返事を受け取りました《この電話番号(メールアドレス)は現在使われておりません》私は車でジュネーヴへ向かいました。あの広告会社は、潰れていました!ああ!

私はまだゲームについて正式な契約をしていませんでした。彼は必要な情報をすべて持っています。ゲームアイデアを守る術はないのですから、彼らが私抜きでゲームを作ってしまうのではないかと不安になりました。私の夢は悪夢となってしまいました。

初めてのゲームデザイナー

これがどれほどのストレスだったかご想像がつくでしょう。連絡はなく、私はどんどん不安になっていきました。そして危機感を抱くようになりました。これ以上失うものなどないのだから、とんでもないことだって試してみればいいじゃないか!

最初にご説明したように、自分のゲームを作る前に私はゲームについての情報を紙媒体とインターネットからできる限り集めました。情報元の一つは、BrunoFaiduttiのウェブサイト(と有名なIdeal Game Library)でした【訳注:現在は残念なことにデータはすべて消えています。勿体ない……】。ゲーマーとして、私は彼のデザインが好きでした(特にKnightmare Chess/ナイトメア・チェスCitadel/操り人形Mysteryof the Abbey【訳注:Knightmare Chessは今年第3版がSJGから発売予定、Mysteryof the Abbeyは2003年にDoWから出ていますが、フランス語初版が1995年に出ています】)。そして彼がウェブサイトでゲームについて語る時の書き方も好きでした。ウェブサイトには、短い一文がありました。

この10年、私はゲームを、1人で、あるいは共同してデザインしてきました

 それなら、共同デザインを提案すれば良いのではないだろうか?私は彼に、短く(10行以内で)状況を説明したメールを送りました。そして、もしパブリッシャーを見つけられると思ったら共同デザイナーになってもらえないかと提案しました。正直言って、私は返事を貰えるとは思っていませんでした。2時間後、私はメールの返事を受け取りました。短く要点がまとめられたあのメールを、私はいつでも覚えています。

こんにちは。私にプロトタイプを送って下さい。結果は以下の3つのどれかになるでしょう。  1.私の好みでなければ、あなたに送り返します。  2.私が気に入って、仕上げを手伝う場合。パブリッシャーが見つかれば共同でサインしましょう。  3.私が気に入って、仕上げが必要ない場合。私がパブリッシャーを紹介することができたら、できあがったゲームを10個私に下さい。毎年開催している私のゲームイベント用に使いたいと思います。

再び、私のことをまったく知らない人が助けてくれました。信じられません! 私はすぐにプロトタイプを送りました。2週間後、私はBrunoからメールを受け取りました(ゲーム業界においては、彼こそが本物のBrunoなのです。私はもう1人のBrunoでしかありません:)

ゲームを遊びました。大変気に入りました。私が手を加えるところはありません。このゲームを製品化するよう《JeuxDescartes》を説得してみましょう【訳注:Jeux Descartesはフランスのゲーム会社。海外ゲームのローカライズだけではなく、自社製品の販売も行っていた。2000年前後は非常に活発な活動をしていた印象がある。2005年にAsmodée傘下となった。創業は1978年で、創業者のPeter Wattsは前述のJeux et Strategieの前身の雑誌に寄稿していた】

そして彼はちゃんとやってくれました!

Bruno、もう一度言いますが、私はあなたがくれたこの貴重なチャンスのことを忘れません。

初めての契約

数ヶ月後、Brunoが約束してくれた通り、《Jeux Descartes》が契約のために連絡をくれました。彼らはリヨンにある会社所属のゲームショップに招待してくれました。そこでちょっとしたミーティングを計画していたのです。現地のデザイナーたちが、プロトタイプを持ち寄って製品化に相応しいかどうかを検討するのです。実際に会ってしっかり契約にサインができれば良いだろう、と説明してくれました。そこで私は2時間ドライブしてリヨンに向かいました。待ち合わせに遅れるなんてあり得ませんでした。私は時間の15分以上前に現地に着きました。製作ディレクターは既にそこにいました。彼は私とSansFoi Ni Loi/Lawlessを一緒に遊びたいと言いましたが、2人用のゲームではないため、他の人を待たなければなりませんでした。

そこで、私はもう一つ別のプロトタイプに興味はないかと尋ねました。2人専用のゲームです。(《Men in Cheese》が製品化しているのを長いこと待っている間に、私はちょっとした2人用ゲームをデザインしていました。海賊のゲームで、その時はNoMercyという名前でした)彼はそれは丁度良い、と言いました。2人専用ゲームのラインを立ち上げようとしているのだが、まだ面白いゲームがないところなのです、と。

そこでまず1回No Mercyを遊びました。私が勝ちました。圧勝でした。彼は私を見て笑って言いました。「おや、あなたの立場からすると、自分のゲームを製品化してくれるかもしれない相手に恥をかかせるのはあまり賢くないのではないですか」私は答えました。「ええ、おそらく真摯なパブリッシャーなら、1回の経験で、このゲームが運だけではなく戦略のあるゲームであることを理解してくれると思ったのですよ。そしてきっと経験によって上達する様子をテストしようとするだろう、と」「もう一度プレイしましょう」

2度目のゲームも同じでした。私が勝ちました。彼の得点は高くなりましたが、まだまだ差がありました。そしてもう一度遊びました。この時にはもうすでに約束の人達はみんな到着していました。そして私たちの対戦を眺めていました。私は3度目も勝ちました。しかし最終得点は僅差でした。彼は何も言いませんでした。そしてミーティングが始まりました。他のデザイナーたちもみなプロトタイプを出しました。私のSans Foi Ni Loi/Lawlessも遊びました。午後の終わりには、私はまた彼と2人になってSans Foi Ni Loi/Lawlessの契約書にサインをしました。

その後、別れ際に私は「私の2人用ゲームはどうでしたか?興味はおありですか?」と聞きました。「ええ、もちろん。ちょうど私が求めていたものにぴったりです。しかし、2人用ゲームのラインを立ち上げるにはゲームが3ち必要なのです。今1つしかありません」そして笑って付け加えました「さあ、あなたならどうすればいいかわかるでしょう!」「本気ですか?もし私があと2つ、2人用ゲームを持ってきたら、全部製品化してくれるのですか?」「このゲームと同じくらいのクオリティであれば、そうなりますね!」

もう一度、信じられないことが起きました……私は本当に幸運な人間です!家に戻って新しいゲームを作ることができるか考えました。3ヶ月後、私はゲームを完成させ、《Jeux Descartes》はこれらの2人用ゲームを、SansFoi Ni Loi/Lawlessよりも先に製品化することに決めたのです。この結果、私の初めてのゲームが3つ、突然にエッセン2002で発売されることになったのです。Guerre & Bêêêh/WarsheepTony & TinoDrake and Drakeの3つです。

Sans Foi Ni Loi/Lawlessはその数ヶ月後、2003年の4月に発売されました。

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