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手続き的悲しさとか

一語で収まらない感情があることは当然誰でもわかってると思うし、あらゆる物事を万能に表現できる語彙力を持ってますかと聞かれたときに、持ってるなんて答える人いないと信じても大体間違いはないと思う。

だから、何が言いたいかというと、誰かの気持ちを結果的に文字通り受け取る必要がある私たちは、ある程度自分の脳内で翻訳しなければならないわけだけれども、それはもちろん完璧じゃない。当たり前体操。

誰かの悲しい気持ちは、悲しいという言葉に留まらないし、私は私の体験した悲しいの限界値までしかわかってないし、人それぞれの尺度で発せられた言葉を人それぞれの尺度で再定義しなければならないってもう当たり前の事言いすぎてて、読んでて面白いのかこのノートってレベルなんだけど、そうじゃん?

とか、そんなことわざわざ書こうと思ったのは、ネットで「悲しければそんなことするはずがない」とか、「本当に悩んでいる人はそういう風にはならない」とか、自分が世のすべてを知っているかのような発言をするのをちょくちょく見て、ええ~本当にこんな人いるんだ!と思ったからである。多分このノートを読んでる人はそのタイプじゃないと思うけど。私も他人の悲しみとか出てきた感情を正解か不正解かジャッジする立場に立ってみたいよ~~!(立ちたくない)

ひとつ、自分でも最近あった感情で面白かったものを紹介したい。先日、ある人間と前向きな面でのお別れをする機会があって、それは合理的に見ればポジティブなものなんだけれども、なぜだかずっと涙が止まらなかった。その時にその人と話して思ったのが、この悲しい気持ちは「お別れ」という行為自体が含んでいる、あえて名付けるとすれば「手続き的悲しさ」なのではないかという事だった。言語化して多分それが適当だったから腑に落ちて、落ち着くことが出来たんだけれども、こんな気持ちもあるんだなあとなんだか不思議に思った。まじで、経験するまでそんな気持ちがあったことも知らなかったと思う。あ、でも、それが言語化によって改めてちゃんと目に見えるようになっただけかもしれないけどね...!

とにかく、自分の言語外の感情があるということと、まあネットは特に本当に一部分しか見えないということと、言語化できてしまうとその気持ちを知ったつもりになってしまうこと、色々ちゃんとしなきゃな~~と思いました。

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ありがたや
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Δゆら

わせだ、大学3年生
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