Chihiro Urashima

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Chihiro Urashima

舞台作品における「演出」についての卒業論文を公開しています|mist63chr@gmail.com

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目次 エレクトラの「死」–2012グラーツ『エレクトラ』の演出について–

序論 0-1. 『エレクトラ』との出会い 0-2. 『エレクトラ』変遷 第1章 2012グラーツ『エレクトラ』 1-1. 舞台と演出 1-2. 音楽と演出 1-3. 動作と演出 第2章 『エレクトラ』と精神分析のかかわり その演出法 2-1. フロイト精神分析と『エレクトラ』  a.) 抑圧されたエロース  b.) 変形するタナトス 2-2. 分裂する評価 ―レジーテアターか「原作への忠実さ」か 第3章 エーラト演出についての解釈の試み 3-1. 境界の解体  a.)

    • note版あとがき -Liebe Grüße,

      この卒論が劇的に動いたとき、私はドイツ・ケルンに滞在していました。そして、生きるか死ぬかレベルの壮絶な食あたりを起こしており、ホステルの部屋のトイレで吐きまくって挙句トイレを詰まらせました。いきなり汚い話ですみません。 どうやら食あたりの原因だった夕食の肉の脂身を出し、胃の中が空っぽになるまで吐き、ようやく体が楽になるのを感じてそのままベッドに倒れこんで気づいたら朝でした。 (私を殺しかけた肉です) 目を覚まして、今が朝で、そして自分はどうやら生きていることを確認し、とり

      • 結論 b.) 「芸術」と「学問」

         終わりに、私がもう一点確認したいことについて、オペラ作品をはじめとする「芸術」と、それらに対する「学問」とのかかわり方がある。  私がこの論文に選んだ「演出」というテーマは、テクスト解釈とは異なり、対象が舞台上でのみ発生するきわめて一過性、一回性の高いものである。  加えて、劇場に居合わせた演者、受容者の間でしか共有ができないというある種の閉鎖性も併せ持っており、一歩離れた視点から研究することが非常に難しい分野である。この点についてはフィッシャー=リヒテも次のように述べる

        • 結論 a.) 「演出」と「作品」

           「2-1. 分裂する評価」でも述べたように、今回2012グラーツ『エレクトラ』は多くの批評家のコメントから典型的な「レジーテアター」の上演であったといえる。  しかし、そもそもレジーテアターという概念は不正確なものである。  というのも、(即興的)パフォーマンス以外のすべての上演は「レジー」によって形作られるからだ。  とはいえ、その「レジー」が意味しているのは 今日の社会状況において作品の内容と類似した関係にあるものを見出し、その作品に刻印する演出行為 _1 で

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        目次 エレクトラの「死」–2012グラーツ『エレクトラ』の演出について–

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          結論 ―『エレクトラ』演出から見えてくるもの

          a.) 「演出」と「作品」 b.) 「芸術」と「学問」 ここまで来てくださってありがとうございます。 もう少しです。

          結論 ―『エレクトラ』演出から見えてくるもの

          3-3. 「演出」の到達点 ―「名前のない踊り」をもとに

           ではここからこれまでの考察を踏まえたうえで、エーラト演出の『エレクトラ』を例に「演出」という行為の可能性、限界あるいは到達点を探っていきたい。  これに関して私が注目したいのは終局におけるエレクトラの「名前のない踊り(ein namenloser Tanz)」の演出である。  作品のクライマックスとなるこの部分は彼女の狂喜や命そのものまでもが海のように広がり、かつ大きく花開くかのような荘厳な音楽が響き渡る。それは 「私たちのように幸せな者にふさわしいことはただ一つ、黙

          3-3. 「演出」の到達点 ―「名前のない踊り」をもとに

          3-2-b.) 「自分」を見つける瞬間

           自身の演出意図についてエーラトがインタビューで特に強調した点に「瞬間的な共感」というものがあった。  これは「自身の演出に関して観客へ何らかのメッセージがあるか」という質問に対して現れた表現であり、以下が彼の回答である。 私にとってまず重要なのは、心理状態を照らす(diese Seelenzustände auszuleuchten)ということだった。 (中略) 私のメッセージとして一番好ましいのは、私が瞬間的に自分を登場人物の誰かと同一視できたとき(wenn ich

          3-2-b.) 「自分」を見つける瞬間

          3-2-a.) 異化効果 ―「エギスト=フロイト」の錯覚

           次に、『エレクトラ』という作品に限定せず、エーラトの「演出」方法、彼の「演出」そのものへと広げて考察していきたい。  2012グラーツ『エレクトラ』の演出は、一連の展開、それに対する各メディアの批評、そしてエーラト自身のコメントの内容から、劇作家ベルトルト・ブレヒト(Bertolt Brecht, 1898-1956)による「叙事的演劇(Episches Theater)」の概念が基盤にあると考えられないだろうか。  叙事的演劇はそれ以前主流であった「劇的演劇(Dram

          3-2-a.) 異化効果 ―「エギスト=フロイト」の錯覚

          3-1-b.) クリュソテミスへと引き継がれる「オレスト」

           次にエーラトが強調したのはクリュソテミスである。  自分の未来を見据え、結婚し母親になりたいと願う彼女は、この作品の中では一見もっとも正常であるかのように見える。  しかしこのクリュソテミスについてはヒューザスが 母親になりたいという彼女の頑固な望みは結局、残酷な復讐を望むエレクトラ、もしくは自身の不完全な誠実さに苦しめられ、悪夢を振り払おうとするクリュテムネストラと同じくらいに(自己)破壊的である _1 と述べているように、彼女の健全性についても疑う余地がありそうで

          3-1-b.) クリュソテミスへと引き継がれる「オレスト」

          3-1-a.) 「死なない」エレクトラ / 「死んだ」オレスト

           インタビューに際し、まず私が明らかにしたかったのはやはり終局の「立ち尽くすエレクトラ」に込められたエーラトの解釈である。  フロイトは『ヒステリー研究』において 被害者の外傷に対する反応は、そもそもそれが復讐のように十分な反応である場合にのみ、完全な「カタルシス的」作用を持つ _1 と述べ、復讐という行為は「回復」につながるとの見解を示している。  ということは2012グラーツ『エレクトラ』において彼女が「死ななかった」のは、復讐の完遂が彼女を回復に導いたということ

          3-1-a.) 「死なない」エレクトラ / 「死んだ」オレスト

          第3章 エーラト演出についての解釈の試み

           2012グラーツ『エレクトラ』を土台としてエレクトラの「死」というものを考えるにあたり、2013年9月13日、私は幸運にも上演地であったグラーツにおいて演出家エーラト氏に直接インタビューをするという貴重な機会を頂いた。  これにより、文献や批評記事だけでなく演出家自身の生の声という重要な資料も含めての考察が可能となり、テーマにより深く肉迫できるであろうと私は確信している。  この第3章では主にインタビュー内容をもとに、まずは『エレクトラ』という総譜、リブレットの内容に関し

          第3章 エーラト演出についての解釈の試み

          2-2. 分裂する評価 ―レジーテアターか「原作への忠実さ」か

           では、この2012グラーツ『エレクトラ』に関する実際の批評を確認していきたい。  多くの記事において一貫していたのが、エーラトの「磨きのかかった演技指導(die ausgefeilten Personenführung)」への高い評価であった。 この場合のPersonenführungとは、場面ごとに歌手たちをどこに立たせ、どう動かすかの指導のことを指す。  これについて、例えばG.ペルシェ(Gerhard Persché)は 舞台上の出来事は全て空想だと言い切ってし

          2-2. 分裂する評価 ―レジーテアターか「原作への忠実さ」か

          2-1-b.) 変形するタナトス

           次に、『エレクトラ』におけるタナトス(死の欲動)の要素を考えてみたい。  フロイトはこの死の欲動について、「自我とエス」では 外界ならびに他の生物を標的とする破壊欲動として姿を現わす _1 と述べている。  では、ここではエレクトラとクリュテムネストラの親子関係を例に取り上げてみたい。  作品から明らかなように、彼女たちは互いに激しく憎み合っている。エレクトラは父を殺した母を憎み、クリュテムネストラはそんな娘を屋敷に閉じ込め、精神的にも物質的にも惨めな生活を強いて

          2-1-b.) 変形するタナトス

          2-1-a.) 抑圧されたエロース

           『エレクトラ』において「性」の抑圧という要素が最も顕著に語られるのは、再会を待ち望んでいた弟に対し、エレクトラが自身の「女の成長」を語る場面であろう。この部分はヒューザスも講評で取り上げている(この部分はオペラにおいても一部短縮、改訂されて引き継がれている)。 分ってくれるでしょう、オレスト、甘美な戦慄を わたしはお父さまに捧げてしまったのよ。 たとえわたしが肉のよろこびにひたったとしても、 お父さまの深い溜息が、お父さまの苦しげな呻き声が わたしの閨にまでひびきわたらな

          2-1-a.) 抑圧されたエロース

          2-1. フロイト精神分析と『エレクトラ』

           今回2012グラーツ『エレクトラ』の上演全体としての評価は基本的に各批評家がレジーテアター(Regietheater)に対してどのような立場をとるかで二分された。  レジーテアターは一般的に原作に 「意味を与え、相互主体的な仲介および解釈を行うこと」(eine sinnstiftende, intersubjektive Vermittlungs und Deutungsleistung) よりも、演出家の 「個人的な体験、意味、近くの地平およびその独裁的な(自己)表現

          2-1. フロイト精神分析と『エレクトラ』

          第2章 『エレクトラ』と精神分析のかかわり その演出法

          2-1. フロイト精神分析と『エレクトラ』 a.) 抑圧されたエロース b.) 変形するタナトス 2-2. 分裂する評価 ―レジーテアターか「原作への忠実さ」か

          第2章 『エレクトラ』と精神分析のかかわり その演出法