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3-1-b.) クリュソテミスへと引き継がれる「オレスト」

 次にエーラトが強調したのはクリュソテミスである。

 自分の未来を見据え、結婚し母親になりたいと願う彼女は、この作品の中では一見もっとも正常であるかのように見える。
 しかしこのクリュソテミスについてはヒューザスが

母親になりたいという彼女の頑固な望みは結局、残酷な復讐を望むエレクトラ、もしくは自身の不完全な誠実さに苦しめられ、悪夢を振り払おうとするクリュテムネストラと同じくらいに(自己)破壊的である _1

と述べているように、彼女の健全性についても疑う余地がありそうである。



 エーラトは彼女について、母親と関連付けながら次のように語る。

私はクリュソテミスはむしろクリュテムネストラにもなり得るのではないかと思う。これは一つの可能性だ。だから彼女はクリュテムネストラのドレスを着るのだ、たとえ観客がそれに気付かなかったとしても。
(中略)
子供が欲しいという抗いがたい望みを持つ女性[クリュソテミス]は彼女もまた、自身の子供を何らかの方法で窒息させてしまうだろう。ここには正常な親子関係は全くない。なぜなら彼女は母の愛の欠如に常に気づいているからだ。クリュソテミスとクリュテムネストラは互いに一言も話さない。一言も! だから私は彼女はちょうど同じようにあらゆる状況にとらわれており、最悪のケースでは同じことをしてしまうのだと思う。(Und die ist eigentlich- deswegen meine ich, die ist genauso gefangen in diesem ganzen Ding und sie wird das weitertragen im schlimmsten Fall.) _2

 エーラトはエレクトラ、クリュソテミス、そしてクリュテムネストラという3人の女性が互いに及ぼし合う影響を強調する。

 その中でもクリュソテミスについては彼自身が語るように、クリュテムネストラのピンク色のドレスを舞台上で何度も着用すること、また終章の暗転の直前に起こる「オレスト! オレスト!(„Orest! Orest!“)」という彼女の叫びがクリュテムネストラの化粧台、衣装が並ぶ中央檀上でなされるということからも、彼女が第二のクリュテムネストラになる可能性をほのめかす。そもそも精神病院の患者の一人として登場した時点で、彼女の「病理性」はエレクトラ、クリュテムネストラのそれと同様に示されていると言えるのである。(「1-3. 動作と演出」参照)


 しかし、クリュソテミスが引き継いでいくのはそれだけではない。私はインタビューに際し、終章のこの二度のオレストへの呼びかけの意味に注目した。
 ここで総譜を確認しよう。

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 二度目の「オレスト!」に注目したい。
 ロングトーン部分で半音下がることは、これは音楽理論的には「ため息の動機(Seufzesmotiv)」[注1]とされている。
 彼女の二度目の叫びはロングトーン部分でGからF♯(G♭)へと下がっており、「ため息の動機」が適用されると言える。

 それではクリュソテミスは何に対してため息をついたのか? 以下がエーラトの回答である。

二回の「オレスト!」[という叫び]は当然、この瞬間彼女がオレストを見たからという意味で書かれているだろう。総譜はただそのような意味にすぎないと私は考えている。突然彼女は兄を見た、しかし正直に言えば私はこれには納得できない。というのも私が思うに、幼いオレストが追放されたとき、歴史や神話に基づけばクリュソテミスはそのことを絶対に理解できていない。彼女が成長した兄を見ても絶対に兄だとはわからないはずだ。これはエレクトラにも同じことが言える、実際に弟が帰ってきたときにどうやって見分けられたというのか。このオペラの数か所において、クリュソテミスは何かを引き継ぐのだと私は思う。エレクトラがもはや存在しない、あるいは彼女が精神的に全てをシャットアウトしてしまったとしても。(völlig sich in ihre Hermetik zurückzieht.)
 (中略)
オレストは再び彼女[クリュソテミス]にとってひとつの固定観念(Ideefixe)となるだろう。そこにどんな意味が込められようとも! _3

 つまりエーラトの演出において、クリュソテミスはエレクトラからは「オレスト」を引き継ぐのである。

 エレクトラにとってオレストという人物は小さな弟というだけでなく、大人になって帰ってきた姿は父(ここでエーラトが“der Papa“という言葉を使ったことも非常に示唆的である。エレクトラの成長は父が殺された少女時代で止まってしまったという意図だろうか?)でもあり、それらが彼女の中で混じり合ってしまっているのだと彼は語る。
 彼女の中で、オレストはもはや観念、もしくは何らかの象徴としてしか存在していない。

 復讐が成し遂げられたことにより、エレクトラは真空状態へと陥り、オレストという観念が今度はクリュソテミスの人格へと流れ込む。
 全ての希望を弟のオレストに託し、その名を呼び続けたエレクトラ。
 エーラトの演出において、終局のオレストへのため息まじりの呼びかけは、エレクトラからクリュソテミスへの「オレスト」という観念、象徴の移行が完了した証拠だと考えられるのではないだろうか。


 このことから、エレクトラ、クリュテムネストラ、そしてクリュソテミスという三人の女性は一人の女性の中にある三つの人格であるとエーラトが考えていることがわかる。
 しかも、この三人格の境界はきわめて危うい。

 そしてこの曖昧な境界を横断していくのが観念としての「オレスト」だ。この観念は作品の要所でこの一人の女性の三つの側面、三つの人格を接合すると同時に、その境界を解体していくという役割を担っているのである。

 本当に区別できるだろうか、一体誰が「健全」で、誰が「病んでいる」というのか?(Lässt sich da noch wirklich unterscheiden, wer von den beiden “gesund” und wer “krank” ist?) _4

とヒューザスが繰り返し述べているように、オペラ『エレクトラ』は、戯曲の展開、登場人物の性格づけ、役者の演技、あるいは音楽のいずれによっても「正常」と「異常」の境界が曖昧にされた作品だと考えることができる。

 ヒューザスもこのオペラのことを

復讐の寓話ではなく、心的リアリティの多義性(Vieldeutigkeit psychischer Realität)を表している _5

と述べているが、これは『エレクトラ』というオペラ一般に言えることであり、果たして彼が実際にエーラトの演出を確認したうえでこの講評を寄せたかどうかは定かではないように思われる。

 しかし、結果として2012グラーツ『エレクトラ』においてもこの側面は共通しており、エーラトも

病院にいる彼らは自分たちとは別の人間なのではなく、私たちがそれを認めたくないだけで実はとても似ているのだ。私は彼らは病気で、私たちは正常な人間であるという評価は断じてしたくない。 _6

 と言い切っている。


 このように、2012グラーツ『エレクトラ』は「境界の解体」という側面がとりわけ強調されていたのではないだろうか。
 それは「正常」と「異常」という境界だけにとどまらず、
 さらに各登場人物たちの人格の境界
 「生」と「死」の境界
 果ては「始まり」と「終わり」の境界までもが解体の対象にされることになったのである。

*** *** ***
[注1]音楽用語では、旋律を飾って楽曲に趣を添えるために用いる音(装飾音)を指す“Manieren“(独:マニーレン)の一種。一回の半音の下降は「ため息音型(Seufzerfigur)」であり、二回以上になると「嘆き(Lamento)」となる。

1. 
Hüsers,2012., pp.29-30.
2. Interview., p.5.
3. Ibid.
4. Hüsers,2012., p.25.
5. Ibid., p.30.
6. Interview., pp.3-4.

総譜:Strauss, 1916, p.370.

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