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2-1. フロイト精神分析と『エレクトラ』

 今回2012グラーツ『エレクトラ』の上演全体としての評価は基本的に各批評家がレジーテアター(Regietheater)に対してどのような立場をとるかで二分された。

 レジーテアターは一般的に原作に
「意味を与え、相互主体的な仲介および解釈を行うこと」(eine sinnstiftende, intersubjektive Vermittlungs und Deutungsleistung)
 よりも、演出家の
「個人的な体験、意味、近くの地平およびその独裁的な(自己)表現の意図が舞台制作の主要な目的」(deren subjective Erfahrungs-, Bedeutungs- und Wahrnehmungshorizonte sowie ihre autokrastischen (Selbst-) Darstellungsintentionen warden dabei zum Hauptzweck der Theaterproduktion)
 となる演出に対して用いられる。 _1

 それに対するのが「原作への忠実さ」(Werktreue)を重視する考え方で、2012グラーツ『エレクトラ』においてもこの二元論の間で評価が分裂する結果となった。

 とはいえ、結果だけを見れば今回のエーラトの演出には否定的な論が多く見られた。
 各誌の批評家たちのほとんどは彼の演出があまりにもフロイト精神分析、および精神病理学の世界を誇張しすぎていると指摘し、ホフマンスタール・シュトラウスの世界との乖離を批判した。
 彼らが指摘するように、2012グラーツ『エレクトラ』の演出においては舞台装置や歌手たちの衣装など多くの面で20世紀オーストリアの精神科医ジークムント・フロイト(Sigmund Freud, 1856-1939)によって始められた精神分析(die Psychoanalyse)および心理病理学(die Neuropathologie)の世界が強調されており、エギストに関してはまさにフロイトを思わせるような衣装で登場する。
 しかし、この精神分析がホフマンスタールによる戯曲『エレクトラ』と同時期に立ち現れたということ、そのなかでフロイトによる『夢分析』(1900年)およびヨーゼフ・ブロイアーとの共著『ヒステリー研究』(1895年)の2冊は今日に至るまで精神分析理論の土台として評価され、恐らくホフマンスタールもこの2冊を読んでいたであろうということを踏まえれば、このことは決して偶然ではないように思われる。


 そして、本論文では特にフロイトが提唱した二種類の「欲動」、すなわちエロース(性欲動)タナトス(死の欲動)を取り上げ、オペラ『エレクトラ』との関連性を論じていきたい。というのも、『エレクトラ』においては登場人物たちの性格づけに関してこれら二つの要素が非常に重要な位置を占めていると思われるからだ。
 フロイトは「自我とエス」においてこの二つの欲動を以下のように説明する。

 まずは、欲動の種類は二つあるということ。一方は、性欲動ないしはエロースと称されているもので、他方の欲動に比べてはるかに賑やかで目立っており、それと分かりやすい。この欲動には、制止されていない本来の性欲動、ならびに、そこから転じて目標制止されたり昇華されたりした欲動の蠢きが含まれているばかりでなく、自我がもっているとみなさざるをえない自己保存欲動も含まれている。精神分析研究の初期には、この自己保存欲動は、それなりの理由をもって、性的な対象欲動に対立するものとされていたものである。これに対して、もう一方の種類の欲動は、はっきりそれと指し示すのがなかなかむずかしく、われわれとしては結局、サディズムを、この種の欲動の代理表現とみなすことになった。生物学に依拠した理論的考察にもとづいてわれわれが仮定したのは、有機的生命体を生命なき状態へ引き戻すことを使命としている死の欲動である。その使命は、エロースが、小片となって飛び散った生命基質をどんどん大きくまとめあげることによって生命をより複雑なものにし、むろんそうすることで生命を保存しつづけることを目標としているのと対極にある。が、その一方で、この二つの欲動はともに、きわめて厳密な意味で守旧的に振る舞い、生命の発生によって乱された状態を修復することをめざす。つまり、生命の発生は、言ってみれば、さらに生きつづけてゆくことの原因となると同時に、死へと突き進んで行こうとすることの原因でもあるのであって、生命そのものは、この二方向の追求のあいだで生じる闘争と妥協にほかならないということである。 _2


また、2012グラーツ『エレクトラ』ドラマトゥルクであるF.ヒューザス(Francis Hüsers)もまた今回の演出に寄せた講評において特にエレクトラ、そして西洋人の「性」意識に関心を向けている。
 そしてその際ヒューザスは哲学者ミシェル・フーコー(Michel Foucalt)の考えを中心に論を展開していたことから、本論文においても主にフーコーの論を参考にしつつ考察していきたい。

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1. Friedrich,Sven: Um die „Geburt der Trägodie aus dem Geist der Musik“ bittend-Überlegungen zum Regietheater auf der Opernbühne, in: wagner spectrum, 2005, pp.31-42, hier p.36.
2. ジークムント・フロイト、道簱泰三訳「自我とエス」(フロイト全集 / ジークムント・フロイト著 ; 新宮一成 [ほか] 編集委員 ; 18)岩波書店、2007年、pp.37-38。

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