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3-1-a.) 「死なない」エレクトラ / 「死んだ」オレスト

 インタビューに際し、まず私が明らかにしたかったのはやはり終局の「立ち尽くすエレクトラ」に込められたエーラトの解釈である。

 フロイトは『ヒステリー研究』において

被害者の外傷に対する反応は、そもそもそれが復讐のように十分な反応である場合にのみ、完全な「カタルシス的」作用を持つ _1

と述べ、復讐という行為は「回復」につながるとの見解を示している。

 ということは2012グラーツ『エレクトラ』において彼女が「死ななかった」のは、復讐の完遂が彼女を回復に導いたということなのだろうか? エーラトはこう回答している。

私はそれをカタルシスだとは思わない。(中略)誰かに死んでほしいと思うとき、もしもその願いが叶ったとしても、私はそれで気分が晴れるとは思わない。私たちが誰かを殺すとき、同時に自分の中でも何かを殺してしまう。彼女が生き続けたとしたら、殺人を犯したあとに元気になるとは思わない。
_2

 その上で彼は自身のエレクトラの最期について、多くの文献に見られるような「念願だった復讐がようやく遂げられ、生き続ける理由が失われたことで恍惚状態のうちに息絶える」という通説を否定する。

彼女が気を失って地面に倒れこむというのは、「綺麗すぎる」気がする。復讐はもちろん彼女にとっては唯一の生きる理由だ。しかし、たとえそれが成し遂げられたとして、私はそれだけで人が死ぬとは思えない。彼女はこのあと自殺する、あるいは悲願が達成されたことで恐ろしい真空状態にある、しかしそれは死ぬということにはならない!(Aber da heißt noch nicht tot sein!) _3

 エーラトは「悲願」の達成と肉体的な死との関連の不可能性を強調する。
 このような演出を施された彼のエレクトラはおそらく文字通りの「生きる屍」となるのだろう。

 現実的に考えて、復讐願望に限らず長年焦がれつづけてきた悲願が達成されることによる恍惚はそれ自体で現実の身体を圧倒することはない。
 エーラトが作り上げたエレクトラは、恍惚状態の後に途方もなく大きな喪失感を実感することになるだろう。彼女は大海のように押し寄せる酩酊にではなく、生きる意味を丸ごと抜き取られたかのような心的真空状態に負けるのだ。新たな生きる意味を見出すこともできず、自殺に走る気力もなく、彼女は舞台に立ち尽くすしかないのである。


 ここでオレストの演出法にも注目したい。オレストという人物について、ヒューザスは講評でこう語っていた。

弟はエレクトラの心理に依存しない実存というものをそもそも持っているのだろうか? エレクトラはさしあたりオレストの死を力いっぱい否定はするが、その偽りの死の便りをきっかけに、オレストなしで一緒に復讐を実行しようとクリュソテミスに説得しようとする。そして結局彼女は弟の偽りの死の便りを信用してしまうのである。オレストの登場はエレクトラにとって、毎晩記憶を呼び起こしていたアガメムノンの登場と同じだけの価値があっただろう。オレスト、彼女の弟こそは父親の霊であり、エレクトラの復讐妄想の受肉である。 _4

 彼が述べるように、オレストは復讐、敵、救済者、そして弟であり父であるというようにあらゆる姿に形を変えてエレクトラ、クリュソテミス、そしてクリュテムネストラ三人の内面に現前する。

 それだけでなく、彼は彼女たちを閉じ込めている精神病院の中にも潜んでいる。エーラトが語るに、あの少女の恰好をした若い使用人(患者)がその一つの姿である。(「1-1. 舞台と演出」参照)
 彼は患者であると同時に幼いオレストでもあるのだという。それゆえ、彼が片時も手放さなかったおもちゃの木馬とは、この『エレクトラ』という復讐劇が起こる全てのきっかけとなったトロイ戦争の象徴的モチーフである「トロイの木馬」[注1]なのである。

 このように、エーラト演出においてオレストという存在は始めから肉体的実存を伴わない状態、病院に漂う影のような状態で登場するのである。
 エーラトは彼について以下のように語る。

オレストは本当は死んでいるのではないだろうか? 彼は単に幻想に過ぎず、むしろこれは音楽からそう考えられる。なぜならエレクトラとオレストの再会の瞬間に音楽は完全に異なったように書かれているからだ。オレストが現れたとき、全く違う音楽が現れる。まさにエレクトラも言っているだろう、「これは夢、私に贈られたどんな夢よりも美しい夢」(ein Traumbild, mir geschenktes Traumbild, schöner als alle Träume)だと。それは実際に起こったことというよりむしろ憧れ(eine Sehnsucht)のようなものだ。_5

 ここでエーラトが強調した姉弟の再会の場面を確認すると、

「中庭の犬でさえ私と気づいたのに、実の姉にはわからないのか(„Die Hunde auf dem Hof erkennen mich, und meine Schwester nicht?“)」 _6

 とオレストが優しく語りかけ、エレクトラが「オレスト!」と金切声のような高音で弟の名前を叫ぶと同時に、それまで姉弟の会話の背後で息をひそめていたかのようなオーケストラが地響きのように一斉に鳴り響く。
 確かにこの場面は本作品において、後述する「名前のない踊り(ein namenloser Tanz)」の部分に次ぐ盛り上がりを見せる場面だと言えるだろう。

 この場面で行った巨大なグミの木を吊り下げる演出に関して、エーラトは「オレストが現れたこの瞬間の非現実性をさらに強めるため」 だと自ら語った。
 だからこそ、はじめにオレストは二階席に立ったのではないだろうか。
 これはある種の神の降臨を思い起こさせる演出であるように思われる。彼が舞台に立った時間はほんのわずかだ。そして守役とともに奥へと消えたあとに彼が二度と舞台上に戻ってこないという演出も彼の実在性が否定されている証拠だと考えられる。「生きる屍」として演出された姉とは対照的に、彼は「本当に死んでいる」のである。


 するとここから私たちはまた新たな疑問に直面する。オレストが実在せず、エレクトラの復讐妄想の受肉であるだけの存在なら、クリュテムネストラを殺したのは一体誰なのか? エーラトは語る。

そもそもクリュテムネストラを殺したのは一体誰なのか、私はこのことも本当に疑問視している。(中略)クリュテムネストラの叫び声が響く瞬間、エレクトラは彼女の靴で自らの腕を切る。ではここでクリュテムネストラは「どのくらい」死んだのか?(Und wie weit ist auch Klytämnestra tot?) もちろん、神話によれば彼女はここで死んでいる。しかし誰が彼女を殺したのか? ひょっとしたら本当にエレクトラが殺したのではないか? 私はこのことに関しては一切明らかにしたくない。というのも、多くの可能性があった方がより緊張感があるからだ。 _7

 ここでエーラトが程度を表す”wie weit”(どのくらい)という表現をしたことに注目したい。

 このとき彼の発言意図としては「叫び声が消えた時点でもまだクリュテムネストラには息があったのではないか」ということが推測されるが、それ以上に根本的な部分が明らかにされているように思われる。

 つまり、死には尺度があるのである。
 呼吸が止まり、細胞が活動を停止させるその瞬間だけを死と呼ぶのではなく、そこに至るプロセス全体が死なのである。
 そして同時に、どこまでが「生」で、どこからが「死」なのかという判断基準は私たちの主観に委ねられている。「生きる屍」となったエレクトラもある意味では死んでおり、肉体的には死んでいるオレストも観念(Idee)として生きているのである。


*** *** ***
[注1]ここではトロイの木馬というモチーフよりも、背景にあるトロイ戦争への連想を狙ったものだと考えられる。ミケーネ王アガメムノンはトロイに戦争を仕掛ける際、海の逆風を鎮めるために女神アルテミスの指示に従い娘イピゲネイアを生贄に捧げた。この行為が妻クリュテムネストラの憎悪を買い、帰国後に謀殺される原因となった。

1. ジークムント・フロイト、芝伸太郎訳『ヒステリー研究:1895年』(フロイト全集 / ジークムント・フロイト著 ; 新宮一成 [ほか] 編集委員 ; 2)岩波書店、2008年、p.12。
2. Urashima,Chihiro, Interview mit Johannes Erath, 13.9.2012., Oper Graz. Tonaufnahme/Abschrift(Manuskript), p.1.
(以下ここからの引用はInterview.と表記)
3. Ibid., p.5.
4. Hüsers,2012, p.25.
5. Interview., pp.1-2.
6. Hofmannsthal, Hugo.v., 1987,p.50.
7. Interview., p.3.

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