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2-2. 分裂する評価 ―レジーテアターか「原作への忠実さ」か

 では、この2012グラーツ『エレクトラ』に関する実際の批評を確認していきたい。

 多くの記事において一貫していたのが、エーラトの「磨きのかかった演技指導(die ausgefeilten Personenführung)」への高い評価であった。 この場合のPersonenführungとは、場面ごとに歌手たちをどこに立たせ、どう動かすかの指導のことを指す。

 これについて、例えばG.ペルシェ(Gerhard Persché)は

舞台上の出来事は全て空想だと言い切ってしまうことであらゆる事柄が容認されることになるが、エーラトによるこの『エレクトラ』での出来事はそれ自体この枠組みにおいて常に納得させられ、濃密なものである。それはまさしく入念に練り上げられた演技指導の貢献によるものだ。 _1

とエーラトの手法を絶賛している。このことから、2012『エレクトラ』におけるエーラトの演出は、オペラ作品を扱いながらもきわめて演劇的であると言えるのかもしれない。

 しかし、先に述べたように批評家たちの多くはこの演出に関して否定的であった。P.ヴァルナーは

エーラトはレジーテアターの支持者として、台本作家と作曲家の意図には当然関心がない。おそらく彼はホフマンスタールによる『エレクトラ上演指示書』(“Szenische Vorschriften zu Elektra“)を一度も読んだことがないだろう。[…]この演出はもちろん悲劇の基本的な考え方に沿ってなされていない。 _2

と述べ、

“Regietheater“という概念が定着する以前、演劇は“Per aspera ad astra“ [注1]のモットーのもとに行われていた。レジーテアターは今やその逆の道を行く。 _3

とレジーテアターを批判する。

 またハースルマイヤーはパンフレットに掲載されたミヒャエル・ヴァルター(Michael Walter)の論文の一部とヒューザスの講評も教理一辺倒であると指摘し、演出チームは精神分析の絶対性を主張しすぎるがゆえに、ホフマンスタールとフロイトの時間的、距離的な共通点の幻想に飲み込まれてしまったと批判し、ニーチェの著作『音楽の精神からの悲劇の誕生』(Der Geburt der Tragödie aus dem Geist der Musik)をもじり、「レジーテアターの精神からの今日のオペラにおける悲劇の誕生」(“Vom Ursprung der heutigen Operntragödie aus dem Geist des Regietheaters.“)と称した。_4

 シュピースは「ホフマンスタールとシュトラウスは一体誰なのか?」(Wer sind denn schon die Herren Hofmannsthal und Strauss?) という表現でエーラトがホフマンスタール・シュトラウス程度の人間であれば無視してもいいと考えているのではないかと指摘し、それゆえ彼の演出もソフォクレスが描く時代を超えた心理学に対応できなかったのだと述べた。 _5


 一方、彼の演出を評価する批評家たちはすなわちレジーテアターにも寛容な態度を示しているといえる。その中でもD.エンダ―(Daniel Ender)はこの演出について

ホフマンスタールにとって『夢としての舞台』(“Bühne als Traumbild“)という考えが念頭にあるこの作品、同時にシュトラウスのものでもあるこの作品を(中略)かつてどんなオペラにもなかったような強い音楽が立ち上がってくるように変えた。難易度の高い作品にも関わらず、ホフマンスタールの意図をここまで汲み上げたことは過小評価できない大博打(ein nicht zu unterschätzender Coup)である。 _6

と評価している。
 またH.ベッケ(Hermann Becke)はそもそもホフマンスタールとフロイトとのつながりは過大評価された、あまりにも一次元的なもの(stark überschatzt und vor allem viel zu eindimensional)かもしれないとの見解を示し 

いずれにせよ演出家はひたすら精神分析への接近を選択し、全ての女性たちを非常にヒステリックに描いたために彼女たちの個性や古代的な偉大さ(ihre archaische Größe)を取り払う _7

と指摘したものの、観客の反応は熱狂的な賛同であったことから上演としては成功だろうと結論づけた。


 しかし、このような評価の二分化という現象は、逆に言えばこの演出は観客に多様な視点、解釈、感想を持つことを許しているということでもあり、半ば強制的に観客を主体的に「参加」させているものだとも言える。
 これにより、受容者である観客は見慣れた『エレクトラ』の世界から引き離され、舞台上の設定、繰り広げられる人物たちの行動、そして最終的には物語そのものの展開までも疑うことになる。


 そのなかでも、ここで私はエレクトラの「死」ということについて特に注目したい。
 作者であるホフマンスタールはエレクトラという人物の結末について自身の覚書で以下のように語っている。

彼女はもはや生き続けることはできぬ。衝撃が加えられた時には、彼女の生や内臓は、彼女から脱落しなければならぬ。それは丁度雄の蜜蜂が女王蜂に受精した際に、受精針と同時に、その内臓も生命も落下してしまうようなものだ。 _8

 それではこの演出において「生き続ける」ことになったエレクトラから私たちは何を読み取ることができるだろうか。
 ここで再度終局のト書きを確認すると、エレクトラは「動かなく」なるとあるだけで本当に彼女が「死んだ」のかどうかは明らかにされていない。とするとここでエーラトの演出のようにエレクトラを生かし続けるということもト書きに違反しないことになる。

 それではこの作品において過去の演出家たちがあらゆる手法で手掛けてきた「エレクトラの死」とは何なのだろうか。
 そもそも、私たちはホフマンスタールが自身の覚書で語るエレクトラの結末を、ただ呼吸が止まり、細胞の活動が停止するというだけの即物的で、事実としての単純な「死」であると安易に結論づけて良いのだろうか?

*** *** ***
[注1]ラテン語で「困難を通じて天へ」と訳され、「困難を克服して栄光を獲得する」の意。

1. Persché,Gerhard: „Chez Sigmund“, In: Opernwelt, Erhard Friedlich Verlag, April.2012.,p.39.
2. Walner,Peter,op.cit., 23.1.2012.
3. Ibid.
4. Haslmayr,Harald,op.cit., 23.1.2012.
5. Spies,Hansjörg,op.cit.,23.1.2012.
6. Ender,Daniel: „Traumbilder in der geschlossenen Anstalt“, In: Österreichische Musikzeitschrift, Böhlau, 2.2012., p.80.
7. Becke,Hermann, 23.1.2012.
8. Hugo von Hofmannsthal: Aufzeichnungen, in: Gesammelte Werke in Einzelausgaben, Herbert Steiner(Hg.), Frankfurt am Main:Fischer, 1959, p.452.

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