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田中和将2万字インタビューまとめ(前編)

田中和将という人間の人となりを知りたい――と思ったときに、これを思い浮かべる人も多いのではないだろうか。『ROCKIN'ON JAPAN』(1999年12月号)である。

表紙巻頭は、田中さんの2万字インタビューだ。いわゆるライフヒストリー・インタビューである。出生地、生年月日、初めての記憶に始まり、学生時代、バンド結成、そして現在までを赤裸々に語っている。

今でこそアルバムが出てもインタビューは6ページほどしか割いてもらえないGRAPEVINEだが、当時は大ブレイク中。編集後記「場外乱闘」によると、このインタビューが行われたのは1999年2月10日なので、作品的にはシングル『スロウ』(1999年1月20日リリース)のあと。まさに、売り上げ的には絶頂期。

そんななかで明かされた田中さんの過去。インタビューのキャッチは、「あまりにも若き孤独者・田中和将、衝撃の2万字インタビュー」。もうほんとにドラマかよ、いやドラマでもないわと思うくらい、壮絶なのである。そして同時に、田中さんの歌詞の変遷をたどっていくために、欠かせない”資料”でもある。

というわけで、読んだことがある人、持っている人もいると思うが、2万字インタビューの内容を時系列で整理してみようと思う。今回は、GRAPEVINEを結成するまで。合間に簡単な補足も入れていく。

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田中和将。1974(昭和49)年1月15日生まれ。世代としては「氷河期時代」(1970~1983年)。いわゆる「失われた世代」と呼ばれる層で、受験・就職ともに厳しい戦いを強いられた世代とされる。

生家は兵庫県神戸市中央区野崎通にあったそうだ。

当時の記憶は薄いそうで、インタビューでは「かなり山のほう」と漠然とした描写がある。ちなみにこの山はおそらく、神戸布引ハーブ園などがある世継山のことだと思われる。

2万字インタビュー出てくる登場人物は、主に以下の通り。

【父親】
・幼い田中さんを溺愛していた。
・外車に乗っていた(父親がいたころは「結構金持ちだった」)。
・職業はよくわからずじまい。田中さんいわく「ヤクザ者やったと思われます」。また、「副業で海賊もどきをやっていたらしい(笑)」とも。
・田中さんが幼い頃に離婚。理由ははっきりしないものの「女を作って別れたんやと思う」とのこと。離婚後も時々会っていた。

【母親】
・水商売に就いていたと思われるが、田中さんが生まれるころに辞め、専業主婦に。
・家を空けることが多く、田中さんが7~8歳のころに「とある事情で」いなくなった。
・田中さんを友人夫婦に預けている間に貯金し、田中さんが中学校に上がったころにまた一緒に住み始める。

【兄】
・田中さんと10歳差。
・異父兄弟で、母の連れ子。
・中学生時代は坊主頭で、いたずら好きだったため、サザエさんの“カツオ”のようだった。田中さんと一緒に、水風船を作り、ビルの屋上から通行人めがけて投げつけていた。
・田中さんいわく「天才と紙一重」。
・マンガ家志望だったが、田中さんいわく「思いつめて描けなくなるタイプ」だった。
・田中さんが幼稚園生のころ『ドラえもん』を買ってきて、コマを読む順番などをレクチャーしてくれた。田中さんは、2人で寝ころびながらセリフを読んでくれたことを「強烈に憶えている」と言っている。
・小学校低学年の田中さんに野球を教えた。
・母親がいなくなった17~18歳のころは、田中さんを食べさせるために日雇いのバイトなどで生活費を稼いだ。その後、上京。
・田中さんが中学1年生のころに、東京で「挫折して」戻ってくる。
・東京からTHE STREET SLIDERSやRCサクセションを持って帰ってきた。

【母親の友人夫婦】
・母親の水商売時代の友達。
・息子が1人おり、田中さんの1学年上
・小学校時代、同じアパートの上の階に住んでいたが、大阪へ引っ越した。
・小学3~6年生までの3年間、田中さんを預かってくれた。

ここからは、時系列で来歴を紹介する。

家族構成は父、母、兄、田中さんの4人。幼少期に両親は離婚しているが、父親がいなくなったことに対して特に疑問はなく、田中さんは「覚えがない」と話している。

くもち幼稚園に入園するも、中退。幼稚園に着くと、兄が教えてくれた園歌「くーもっち、もっちもっち♪」が頭をよぎって嫌になったと言う。ちなみにこれは兄のオリジナル曲で、本当のくもち幼稚園の園歌はこのような歌詞ではない。

幼稚園に行かなくなってからは、兄と遊んで過ごしていた。世代的には『キン肉マン』が流行した世代だが、兄の影響で藤子不二雄マンガに興味を示すように。このような“ルーツ指向”は「兄貴の刷り込み」だと分析している。

ちなみに、書籍『書生・田中和将の“とんと、ご無沙汰”』では、藤子・F・不二雄にあてて手紙を書いている。

ところで、しずかちゃんやドラミが時々嫌な女に見えてしまうのはおれだけなんだろうか。そんな時はとても悲しくなります。

このうがった、しかし本質的でもある視点は今の田中さんに通じるものがあるような気がする。

当時、ジュリーこと沢田研二をかなりリスペクトしていたらしく、“カサブランカ・ダンディ”をはじめ「ほとんど全曲コピーしていたらしい」と語っている(本人はあまり覚えていないような口調)。“カサブランカ・ダンディ”は1979年にリリースされているので、田中さんが5歳のときだ。

小学生に入ると、通学のために神戸市中央区の中心部に引っ越した。同じアパートの階上には、母親の友人夫婦・息子が住んでいたが、しばらくして大阪へ引っ越してしまう。

小学校低学年のころ、嫌いだったのは「母親の化粧の匂い」、好きだったのは神若公園で遊ぶこと。この公園にいたホームレスと仲良かったらしい。

田中さんが7~8歳になったころ、母親が家を空けることが多くなる。事情は明かされていないが、当時の家庭の状況について、田中さんはこのように語っている。

兄貴と母親、めちゃくちゃもう、毎日のようにケンカしてるんですよ。俺むしろ兄貴のほうが悪者に思えてですね。なんでおかんをいじめるのかみたいな。まあ、おかんも毎日のように泣いてたし。
何度も何度も、夜中に起きたら母親がおらんことが多いわけですよ……あれは嫌でしたね。涙のシーンはいっぱいありましたよ。(中略)暗い、ほの暗―いイメージがいっぱいありますね。

このほの暗い回想は、“少年”の世界観と酷似している。

母親はたまに帰ってくるものの、働いておらず、家族は児童扶養手当などの支援制度を利用していた。手当の支給日は「ちゃんとメシが食えた」そうで、母親と2人で定食屋などに寄るのが楽しみだったと話している。

その後、母がついにいなくなり、しばらくは兄と2人きりの生活が続く。兄は高校に行かず、日雇いのバイトで2人分の生活費を稼いでいたというが、当時のことを田中さんはこう振り返っている。

まあ、かなり無理があったと思うんですよ。あの2人暮らしは。お金もないですし、パンの耳をかじって食っていたわけですよ。

そのような生活を経て、田中さんが小学3年生のころ、前述の友人夫婦に預かられるかたちで大阪へ引っ越すことになる。これを機に兄は上京。田中さんは、母親・兄と離れるのは「寂しかった」と言うが、一方でその家族のことは好きだったため「すごい嬉しかった」「あの家族がいてくれたおかげですごい助かりました」と話している。

田中さんは、その家族のもとで、小学校卒業までを過ごす。当時の心境については、次のように吐露している。

あの3年間はすごい、いわゆる普通の小学生よりやったと思うんですよ一番。俺の人生の中で一番普通の人やったと思います。
どっか人と違うみたいなところはつねにあったと思うんですけど、それを実感はしてなかった。なるだけ溶け込もうと思ってたと思うんですよ。なんとなく違うのはわかってんねん、でも一緒になっときたい、みたいな

小学5~6年生のころは、女子の目立つグループと、田中さんがいた男子の目立つグループで仲良くしていたとのこと。「女は好きでした」と話しているが、当時はまだ幼く「女っ気にはさほど繋がらなくて、ただませた話をしようとしていました」と話している。

小学生から中学生のころにかけては、映画が好きになる。観ていたのはいわゆる名作だそうだ。ちなみに、チケットぴあの「100Qインタビュー」では、こんな回答も。

Q14 もし映画を撮るならどんな映画?『惑星ソラリス』みたいな、SFやのにめっちゃ退屈なやつとか。あの映画大好きなんですけどね。各シーンにいろいろ込めてはいるんですけど、何も考えずに見たら非常に退屈なやつ、ですかね。

”映像の詩人“と呼ばれるアンドレイ・タルコフスキー。『Sing』収録の“流転” は『惑星ソラリス』にインスパイアされた作品という話も。また、タルコフスキーは『鏡』『サクリファイス』などの作品も手掛けており、田中さんの歌詞とは深い関わりがある(いずれタルコフスキーについても記事を作成したい)。

中学校に上がった田中さんは、ふたたび母親と暮らし始める。母親との2人暮らしは順風満帆で、真っ当なものだったそうだ。ちなみに、小学校時代、中学校では野球部に入ろうと思っていたそうだが、PL学園など野球の名門の“宗教くささ”が嫌いになったのと、坊主にしたくなかったという理由で入部しなかった。

中学1年生のころに、兄が大阪へ戻ってくる。兄が流していたRCサクセションを聴いて衝撃を受け、ギタリストになろうか、映画監督になろうか迷っていた。その後、RCサクセションの「Live at 日比谷野音」の映像を見て、CHABOこと仲井戸麗市(G・Vo)にハマる。

映画より音楽へ傾倒していった田中さんは、中学2年生のときに通販でギターを購入。教則本に掲載されていた“燃えろいい女”、そして思い出の“カサブランカ・ダンディ”をカバーする。

その後、THE STREET SLIDERSをきっかけにギターへの憧れを深めていく。高校1年生のころには「ほとんど全部コピーした」のだとか。ちなみに田中さんは『とんと、ご無沙汰。』連載7回目で、村越"HARRY"弘明(Vo・G)に手紙を書いている。

“ギターの絡み”というものを、いやという程たたき込まれました。(中略)だからおれは常にツイン・ギターのバンドでやってきた。現在もそうだ。「絡み」がないと寂しいのだ。

"This town"を始め、"ギターの絡み"はGRAPEVINEの楽曲の特徴のひとつだ。

成長してからもパンクなどにハマらなかったのは「やっぱり最初にスライダーズがあったから」と話している。また、デビュー以降『From a smalltown』あたりまでは、田中さんの粘着性のある歌声は特徴的だったが、「クリアー・ヴォイスよりは粘着質なのが好き」なのもTHE STREET SLIDERSの影響だと語っている。

ちなみに、田中さんは村越さんの影響でタバコをウィンストンに変えている(ただしこのときは高校生。先生に見つかり停学になった)。

中学1年生のころは、同じクラスの「すごい可愛い子」に片思いもしている。ちなみにこのときにはオナニーを覚えていて、その子もおかずにしていたらしい。

2学期の後半には「俺から見た桂馬の位置(前方2つ目のますの左または右)に座ってた」彼女だが、3学期の後半に念願叶ってとなりの席に。彼女のシャンプーの香りに心奪われ、近所のドラッグストアでシャンプーを片っ端からチェックするという奇行に走る。

田中さんは匂いにフェティシズムを感じると自己分析しており、「パンツが好きなのもたぶんそこから」とのこと。昔の彼女に、セックスの前に風呂に入られてキレたエピソードも明かしている。

ちなみに、シャンプーではなくトリートメントだが、田中さんのこの“匂い”フェティシズムの片鱗が見えているのはもちろんこの曲だろう。

愛でていた 渇望のようなメロディー 嫌気がして撫付ける髪に違う香りがする――“リトル・ガール・トリートメント”より

片思いの彼女とはクラス替えで離れてしまうが、それからも手紙の交換などをしていた。しかし、「何をしていいのかわからなかった」ためにリードできず、フェイドアウト。この前後でギターを手に入れていたので、ますます音楽にのめりこみ、本人いわく「女はいらねえぜって感じ」で自分をなだめていたらしい。

同じころ、高校1年生と偽ってラブホテルで清掃のアルバイトを始める。目的はコンポを買うこと。中学3年生のころにはコンポを手に入れ、RCサクセション、THE STREET SLIDERSに加え、THE ROLLING STONESも聴くようになった。

ちなみに、このラブホテルのバイトで初体験を済ませている。相手は同じアルバイトとして勤めていた、ヤンキーの女子高生。初体験については、「あんまおもしろくなかったですね。気持ちよくもなかったし。向こうも初めてやったみたい」と語っている。

高校は、中学3年生のときの担任のすすめで、大阪府立守口高等学校に進学する。

守口高校は、府立学校再編整備によって2004年3月31日をもって廃校している。現在は大阪府立芦間高等学校となっており、かつての守口高校の敷地には、2015年に設立された守口市立樟風中学校が建てられているようだ。

高校が自宅から遠かったこともあり、「雨が降ったら行かなかった」という不良ぶり。ヤンキーと一緒に遊び、一時はシンナーを吸っていたこともあると言うが、相変わらず音楽少年で、そこに自身のアイデンティティを見出していた。

「こういうことしてても、まあおれはこいつらとは違ってロックがあるから」みたいな。それでだいぶ救われたと思うんですよ

ただし、バンド活動はなかなかうまくいかず、それが「コンプレックスやったかもしれない」とも語っている。

女性関係では、のちに長く付き合うことになる彼女に出会う。デートにいそしんだり、浮気がバレて大ゲンカしたりするなかで、異性にも人生にも言えることとして次のように話している。

常々セックスっていうものに対して思うのは、相手があってなんぼじゃないすか。だから1人で一生懸命気持ちいいフェティシズムを追求してても、相手の同意がないことには高みには上れないっていうことを高校時代に覚えました

当時、この彼女のいとこに影響され、モッズ(1950~1960年あたりにロンドンで発祥した音楽、ファッションなど)に憧れる。Facesのロッド・スチュワートやロニー・レーンのヘアスタイルに憧れて髪を伸ばそうとしたものの、「持ち前の天然パーマのせいで、どうやってもその髪型にならない」と、『とんと、ご無沙汰。』のなかで明かしている。

高校時代で特筆するべきこととして、小3~6のとき田中さんを預かってくれた夫婦が火事で亡くなるという事故が起きる。田中さんは「それが一番ショッキングだったかな」と語っている。

高校卒業を控え、担任のキクチ先生に騙されて「株式会社ともだ」に面接に行くことになる。黄色のツナギを着て、黄色の軽トラックに乗って酒を配送する「すごい黄色い会社」で、さらに、面接官である「ごっついデブの汗ずーっと拭いてるやつ」と「メガネかけた前髪ガーッそろってるやつ」を見て拒否反応を示した田中さんは、先生との約束を破り選考辞退の電話を入れる。

ちなみに、今でも「株式会社ともだ」は実在している。大阪府寝屋川市にある酒店だが、プレミアムフルーツなどの食品も取り扱っている。今でも黄色いツナギを着て配送しているかは確認できなかったが、関西在住の方はぜひ。

高校卒業後は、実家暮らしのまま週2~3日のコンビニ夜間バイトを経て、知り合いのレストランのキッチンで働き始める。金も徐々に貯まっていったが、マスターと親密になってしまい「ほんまにコックにさせようとするから、結局半年で辞めてしまった」そうだ。

音楽の面では、梅田・ミナミあたりの楽器屋やスタジオの貼り紙を見て、バンド探しをしていた。3回ほどライブをやったそうだがウケず、高校のときに抱いていたメジャーへの野心はどんどん薄れていったと言う。それどころか、自身のロック像から髪の長さやファッションなどに固執するようになり、「とりあえずバーボン買って家に置くんですけど、飲めない(笑)」と振り返っている。

その後、パイナップル・アンド・ザ・モンキーズというバンドを結成。このバンドはのちにGRAPEVINEと「浮気する」バンドになる。

パイナップル・アンド・ザ・モンキーズではブルース・ロックをやっていたらしいが、「ちょっと退屈になってきてて」「オリジナル曲を作ってもちっともオリジナル曲に聴こえないし、日本語を乗せるとよるダサくなるだけ」と、次の道を模索する田中さん。そこで見つけたのがGRAPEVINEだった。

田中和将2万字インタビューまとめ後編に続く。

#GRAPEVINE #田中和将 #2万字インタビュー