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【動物に「心」は必要か】を読んで

この本は、なぜ動物を人間になぞらえたがるのか、人間を特別視する思想の起源と危険性を問うている。

多くの一般の人は、動物が人と同じような行動をする場合には、その背景にある意識も同じと類推できると考える。実は、これが一般の人が動物と接する時にしている、ごく自然な考え方である。そして、そのことこそが問題の原因だ。

心には二つのものがある
一つは、「自分で理解する自分の心」つまり内視である。
もう一つは、「他人や他の動物の心」で他者の心は推測するしかない。その推測は他者の表出された行動に基づいてなされる。動物に意識があると類推する根拠は「選択行動」にある。

注意深い研究者であっても、擬人主義、主観主義にそれと知らずに取り込まれる可能性を指摘している。
説明としての擬人主義の問題は、それが論理的に後件肯定になっていることで、「私は困った時に頭をかく」ならば、「自分は頭をかいている、したがって私は困っている」という推論で、もちろん正しくない。擬人主義はその上、「自分の経験」から「動物の経験」への推論も含んでいるので、論理的には支離滅裂である。

行動主義によるオペラント条件付けの進歩は、動物の私的出来事を外から見える行動にすることに成功した。彼らが何に苦しみ、何を欲しているのかが明かにできる。
オペラント条件付けに代表される様々な行動研究の手法は、彼らの私的な快不快の公化を可能にしていくだろう。

モルガンは、無批判な擬人化を批判したのであって、擬人主義という考え方そのものを否定したわけではない。心理学が解釈としての擬人化を否定するには、まだ時間がかかる。
ネーゲルは、現時点では動物が何を考えているかは想像に過ぎず、共感や想像によらない客観的現象学の地道な積み重ねが必要としている。
筆者も、一般の人々の伴侶動物に対する「みなし擬人主義」を否定するつもりはない。ただし「みなし」であることを自覚する限りにおいてであると記している。

人間は動物を統治・管理する。そうなると、人間と動物の関係は支配ー被支配ということになり、ある種の政治的な関係といえる。この種差別を認めた上で、その差別の基準を少しずつ科学的合理性に基づくものにする、不断の努力が必要なのである。

〜でもって俺の感想〜
動物心理学ってのは、動物行動学とほぼ同義だな。
そもそも、動物心理学って言葉を使うこと自体、時代遅れだってさ。
快不快への選択行動が「動物の意識」、つまり心ってわけで、昨今のオペラント条件付けの進歩によって、その動物の私的出来事が外から見える行動になったってことだ。
しかし、いくら動物の私的出来事が公化できたところで、とどのつまり【幸福】かどうかはまた別の話らしい。
この本ではどうも、「心」=「行動選択」であって、幸不幸は論じていない。
結局、現時点では動物が何を考えているかは人間の想像に過ぎない。
人間が支配者ー犬が被支配者である以上、犬の幸不幸は飼い主の判断でしか公化されない。
だから我々は、共感や想像で勝手に相手の感情を決めつけず、「みなし」であることを自覚して、犬を知る努力をし続けなければならないってことだな。