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心の吹き矢

心に吹き矢を装備したのは、大学生の時だった。

吹き矢はペンに仕込まれている。
ペンの先端に小さな小さな目に見えない大きさの氷の矢じり。
その矢じりには猛毒が塗られている。
吹き矢をプッと飛ばす。
矢じりは標的の首筋に刺さるが、あまりに小さすぎて本人は気づかない。
そのうちに猛毒が体内に周り、標的は死ぬ。
しかし氷の矢じりは既に溶けていて、証拠は残らない。

という妄想から生まれた『心の吹き矢』。

一般教養が終わった3回生になると、毎日研究室へと通う日々が始まる。
うちの大学で一番小さいんじゃないか専攻のインド哲学研究室の授業には、膨大な量の予習があった。
単位ギリギリで卒業なんてことはなく、研究室の出られる限りの授業に出席するため、おかげさまで単位の心配は一切したことがなかった。

入学して最初のオリエンテーションの時に、
「サークル活動をしていたら卒業できないと思いなさい」
と言われ、真に受けた私はサークルに属することもなかった。
(大学移転の時期で入りたいサークルが遠かったので入らなかったし、サークルに入って卒業した人もいたので、それは正しくはなかった)
サークルもコンパも学祭も経験せず、いわゆる「大学生」っぽいことは何一つ経験していない。

新学期が始まると、授業で使われるテキストを分割して、各自に担当が割り振られる。
授業は一つではなく、複数が同時に進む。
担当はグループのことも個人のこともある。
3回生から博士課程に所属する院生までが出るような難易度の授業もあり、院生と同じように担当を割り振られたって3回生には難しすぎて手も足も出ない。
そんなことは承知の上で、担当が決まる。

担当部分が決まったら、まず、サンスクリットのデーヴァナーガリーという文字で書かれているものをローマ字に書き直しつつ、パソコンに打ち込む。
そして、ひたすら数冊の辞書と文法書をめくってめくって訳していく。
スラスラいくことなんてほとんどなく、日本語にすらなっていない歯抜けで意味不明の訳ができあがる。
全く常識の通用しない世界の文章を読むので、予想なんてつかないし、適当に書くこともできない。
1文どころか1語が分からず先に進めず、一晩過ぎてしまうことはよくあることだった。
先にローマ字に直した原文の下にできあがった訳を打ち込み、プリントアウトし、授業に出席する人数分をコピーしたら出来上がり。
そして、授業でコテンパンにやっつけられる。

もちろん、担当でなくとも出席する授業の予習は全てしていくことがルールだった。
手ぶらで出席したなら、それはもう居場所がなくいたたまれず、つらい時間を過ごすことになる。
それならば、せめて動詞の原形や時制、名詞の格や意味など、とりあえず分かることだけでも書き込みをして、なんとか予習しましたという顔で出席していた。

そんな大変なこととは知らず、普通は3回生になってから出席する「クマーラサンバヴァ」というインド古典叙事詩の授業に、2回生の時から出席していた。
まだまだサンスクリット文法の初歩しか学んでいない時だったので、ただ席に座って、先輩や先生がどうやって訳すのかを侃々諤々と議論している様子をボケっと眺めているだけだった。
研究室っぽいと思いながら。

それが3回生になると、そういうわけにいかなくなる。

夏休みか冬休みの集中講義の予習を兼ねた勉強会をしているときだった。
テキストが何だったのか覚えていないが、修士課程の院生が若干お手上げ、博士課程の院生も真剣に取り組むという最上級に難易度の高いテキストを読んでいた。
全ての学年を縦割りでグループ分けされたものの、3回生か4回生の私には何について話しているのかも分からないまま、先輩方の話を聞きながら、目の前の花瓶の花をぼんやり眺めていた。
その花は、まだつぼみだった。
勉強会は難易度が高すぎて全く発言できないまま、ただ時間は過ぎていく。
つぼみをひたすら見つめていたら、そのつぼみが少しずつ少しずつ開いていき、ついには開花した。
夕方に始まった勉強会は夜中を過ぎ明け方まで続き、その間につぼみは花開き、私はその様子を一部始終眺めていたのだった。
誰か、花が咲く様子を、最初から最後まで、リアルタイムで見たことある人、いますか?

ここまで高度なテキストになると、学部生には手も足も出ないので、こういう勉強会には参加することに意義がある。

しかし、先にあげた「クマーラサンバヴァ」は学部生が主体となって進める授業だった。
担当になったグループで足りない知識を何とか補い合い、経験を積み、知識を深めていくことが目的だった。

私のグループにあまり授業に出てこない先輩がいた。
ある日、めずらしく出てきたその先輩を含めた数人が集まり、助教授の部屋を借りて予習が始まった。
辞書を引いて文法書を調べて、それでも分からぬことが山盛り。
分からないなりになんとか意見を出し話し合っていた。

その時、その先輩が、
 「その訳、違うと思うよ」
と言った。

ま、誰も自信は全くなかったので、
 「そうですね」
と答え、また考え始めた。

少し進んだ時、また先輩は、
 「その訳も違うと思うよ」
と言った。

意味も通らないし、
 「そうだですよね~」
と、考え続けた。

そして、ひねり出した訳に、またまた先輩は、
 「違うんじゃない?」
と言った。

何があっても怒らないことから『仏のオッチー』と呼ばれたことのある私だが、さすがに何か違和感を感じた。

私が、
 「先輩はどう訳しましたか?」
と尋ねと、
 「知らん」
と先輩は答えた。

なんだ、「知らん」ってなんだ!
『違う』ことはみんなも分かってんだ!
その上で知恵を出し合ってるんだ!
自分の訳した文章もないのに、間違いばかりを指摘するのか!

その瞬間、持っているボールペンの先に氷の矢じりが装てんされ、心の吹き矢が初めて放たれた。
一直線に飛んで行った矢じりは首筋に刺さり、毒が回った先輩は、私の脳内で死亡した。

その後も先輩から有意義なコメントが出ることはなく、ひたすら間違いを指摘し続けられ、そのたびに先輩の首筋に矢じりが刺さり、彼は何度も何度も死亡した。

仏のオッチーだって怒るのだ。
ただし、直接怒らないけど。

その後、大学を卒業して社会に出て様々な状況を経験すると、この心の吹き矢がとても役に立った。
無理な状況に真正面から立ち向かうと、心も体も摩耗していく。
そういう時は、プップップップッと心おきなく吹き矢を飛ばす。
現実には状況は変わらないんだけど、自分の心は少しすっきりする。

『心の吹き矢』の装備、おススメです。

とおススメしたところで、逆に私が脳内で吹き矢を吹かれるなんて皮肉な結果にならぬように。

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